2023年05月08日

偉大なる指導者

 歴史上多くの聖者といわれる方が現れ、人の正しい生き方について述べられている。

にもかかわらず現状の体たらく。それはなぜか・・・

 人が本来求めていないものを求めなければならないような仕組みがいつのころか出来上がっているわけであり
その根本は肉体そのものが人だ・・という考え方に支配されているから

 どうあがいても死というものを免れないのだといった現実・・・それは否定しようが必然として死は存在するのであるから
正直に受け入れればいいのに

 ずっと生きていたいと思うのである

大きな誤りである。人は絶対死ぬのであるから。・・・私たちの生き方は・・・などという

実は私たちではなく、「私」という「個」の話しなのである。

 生まれてくるのも死んでいくのも「個」の究極の姿であるのです。悲しみ、哀しみ、恐怖、孤独観、寂しさ、楽しみと楽しみを永続的に受け  
取りたいという心、

 そんなこんなを胸にとどめながら多くの人は「死」という現実を迎える・・・新たな問題はそこから始まるのである。

 あの世という世界があるのだな・・という認識を持っている人が増えてきているとは思うのであるがどうも根本的な過ちを犯しているようだ

 確かに人は全てその魂を失う事はない、信じる宗教や、あの世を信じない現実、死んだら無になるのだと信じている人、にかかわらず誰もが

 死なないのである。物質を持っているか、つまり肉体を持っているか、持っていないかにその違いがあるわけであって100%人は有する形は違えど
 死んではいないのである。

 そのようになってるのである。

 私とはいったいどうなっているのであろうか、確かに五体はある。五官もある、考える力もある。現実の問題点を図る思考もある、明日への希望も持つことができる。と同時に絶望も持つことができる 

 ある時不思議な講演をきいた

もう数十年になるか、40代後半の男性がある人の頭の周りを掌で円を描きながらいう「シャカが2000年前臨終の場て゜なんといったか、あなたは知っていますね。そうです心の窓を開いて当時のことを語ってください・・・」男性は声を振り絞るように語る「その時仏陀は、今私は今世に於いてそなたたちに言っておく、今仏陀は涅槃に入るが魂は永遠であるゆえに常に法とともにそなたたちとともにあるという事を思え、肉体は滅びるのはつねであるが、この世から去ったととしても永遠に生き続けているのだよ・・」さらに「アナンよ何故そなたは泣くのだ、泣くという事はそなたが持っている肉体に対する執着なのだよ・・・」

 と仏陀ゴーダマはそのように述べられました

高橋信次講演テープより抜粋

指導された男性は2000年前の過去生釈迦の十大弟子のひとり「アナン」といわれた方で、この時は京都在住の方でした。

 ということから。肉体の死はあっても心、魂はその個性を持ったまま永遠に生き続けているのだと、高橋信次師より指導されたものと考えるのである。

 






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2023年04月17日

スピリチュアルの話し

 世にある少なからずの霊媒の存在は、あの世からの「霊界通信」を行うといったいわゆる電話器のようなものである。
書物になって記録されているそれぞれの事件、出来事を検討してみると、別世界との通信のうらには非常に重要な、深い意味があるということを教えられるのである。

 その際、その通信の内容に関しては注意を向けどのような内容が語られているかは吟味しなくてはならないのは当然である。
次元の異なる世界からの話しにしても現実の地上世界に於いての常識的判断によってその質は理解できるものと考えられるので、知性的に霊媒の信ずべきことを確かめ始めると、疑問は次から次へと湧いてくるでありましょう。

霊界とはどのようなものであろうか?そこにおける活動力は何であろうか、又一定の場所のことなのか、或る状態のことを指すのか、天国とか地獄とかはどんなものなのだろうか・・・と「現世」を去ったら我々は何処に存在するのか、地上世界の心配事はどうなるのか、その意味は何かなどと疑問にはきりがなく、そもそも我々の言葉そのものは抽象的真理を説明するのには不適当であり、霊界の通信においてもその言語の制約を受けるためか、かなり霊人?も苦労されているようである。
 
 とはいうものの、現に霊界の存在がある以上、何らかの方法をもってという方法を学びつつある霊人であることは間違いないことなのである。
 
所謂大指導霊という存在からの通信を受けていた「リチャードゼナー」による霊界通信が最も格調高く、その内容の哲学性、などは古今東西におけるあらゆる宗教のもとのもと、真理そのものの内容である事から有意義な霊媒による「通信」であるのだ。・・・と「天と地を結ぶ電話」日本   教文社 に述されている。

 「リチャードゼナー」による神霊会においてゼナーにかかってくる指導霊は、進歩した魂の尊厳さや実践的かつ超越的なオーラを発する存在であり主たる霊人は「アガシャー」と名乗る大指導霊だという事である。(BC地上に生を得たイエスキリストであると高橋信次師談)
 アガシャー曰く「あなたの魂こそが最も偉大であり、あなたの霊的指導者はあなたが自身で何ら努力しないときにはあなたのために何一つすることはできないのである」 これは我々が高い世界の指導霊から実質的な指導を受けられないという事ではなく、意識が高級な指導霊と同期している人はそれに従って感応し、霊感をもってしての援助があるのである。

「天はみずから助けるものを助ける」ということで「自力の極に他力あり」ともいうのである。

 ある音楽指導霊の導きに耳を傾けている音楽家は、自分の内部に新しい大作品となりうるものを霊感的に聴くことができるのである。
 また指導者は道を指示し方法を示唆することもあるかもしれない、たびたび睡眠中や瞑想中におとずれる直観がそれかもしれないのであるが
 そのことに気付き実践の有無を選択したりは自らおこなうものであり、指導者があなたの代わりに行為するという事はないのである。
 なぜなら、あらゆる天使たちやすべての指導霊も我々自身と同じく個の生命にすぎないのであって、我々のみる範囲内では我々と何ら変わらないものであるが、ただ一つ大きく異なる点は諸々の経験を通して悟りえた範囲が地上にいる我々が依然として迷妄の暗い雰囲気、オーラに包み込まれているに反して、彼らは宇宙の一なるものをさとっているという事なのである。

 さらに彼ら指導霊たちを指導している存在彼らが「天の父」ともいう無限の存在「ありてあるもの」を世界の遥かなる領域にもっているので ある。
  
 秩序ある世界であり、愛の世界なのである。


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2023年04月06日

今の人生を終えたら

 私たちの死亡率は100%であります。
 ところで、死後の世界にというよりあの世に還った私たちは、どこに行くのでしょうか。

 それぞれの魂はその魂の持つバイブレーションにあった世界に当面は存在するという事を何度も教わってきました。
 それぞれの一生の中で何を考えどう行動し、どんな結果を得てその結果をどう受け止めたか、ネガティブに思ったかポジティブに前向きにとらえてきたか、その一生中で作り上げてきた己の本性が創り上げた振動数に応じた場所に在することになっているのであります。

 天国と地獄のいずれに住するかは、自分自身の行為の結果が現してるという事を知らなければいけないのです。
 
 天国一言で言ってもその領域は無限に広く、この地球上という三次元世界に近い波長に合っている世界から太陽系全部を見渡せる波長の世界に至るまで、全宇宙を見渡せる世界などあるようです。
 一方地獄の世界も幾層にも分かれ、今現在「ルシフェル・サタン」による力を軸にした世界が繰り広げられているという事を教わりました。

 うらみつらみ、非建設的な不平不満、愚痴、足ることを知らない物質欲にまみれた人生を送ってきた人達、戦争の計画者、情欲、殺人、自己中心、間違った宗教指導者とその信者、等そのような心を持ち続けた結果、それぞれの発信する思いのバイブレーションに応じた世界が目前に繰り広げられるというのです。

 しかしいずれは全ての人は救われ、明るい天国に還ることができるのですが、内容によって地球上の年数で何百年も苦しんでいる場合もあるようです。
 心が軽やかであり、執着のない人生を歩んできた人は天国の門が開くのですがたいていの人は少しだけ地獄をのぞかせられるらしいです。

 スピリチュアルの世界観・・・というものの知っている知っていない関係なく誰もが例外なく同じプロセスで天上界に向かうことになる という。信じている宗教などに関係なく当人の心の状態のままの世界へ当初は住するようです。

 高橋信次 著「心の発見」には次のような文章があります

 ※ この地球上の西側の天上界に住んでおられる「光の天使」の家を訪問したときのそこは、小高い丘の上新緑の樹木に囲まれたドーム型の大きな屋敷であった・・・・高橋先生は肉体を地球上においたまま心は天上界に覚醒したまま往来ができるという能力をお持ちでした

 私の友人であった方で高橋先生ご存命の折、一緒に「禅定・瞑想」に入られるときにこうおっしゃいましたと、聞いたことがあります。

 先生科白「今から私の心は天上界に行きます、ついてこられる方はついてきなさい」・・・と つまり幽体離脱してついてきなさいという話でした。

 とは申しても私たちの本来の目的はそこにあるのでしょうか、物事には順序と時期というものがあり最もふさわしい時期にならないとそうはいかないというのが現実的です。あと何回か何十回か、何百回かの転生が必要なんではないだろうかと思う次第であります。

 さて、題にあります「今の人生を終えたら」について書いてみたいと思います。

 もともと、私たちはこの世に生まれる前の天上界にて、次のような計画を立てます。あの世といわれるところも役所があり(心の発見による)
登録制というものが存在しこの世に生まれてくる目的などの計画を提出するらしいのです。もちろん申請する本人の希望が重視されることは言うまでもないことであるが、当然肉体的に関係の深かった人々や、自分が悟れる環境を選ぶのである。
その計画の内容は以下

 1. 生まれる環境に関して・・・国、時代、両親、家族構成、配偶者、子供等

 2. 身体的な条件    ・・・体格、容姿、健康状態、障害の有無

 3. 能力        ・・・身体的、精神的なもの・・・過去世からの影響を受けている

   そして
 4. 人生での重要な出会いやタイミング、出来事などを設定するが肝心なことはその際に自分がどう対応するかはこの時点では未定

 天上界から自らのガイド 守護霊・指導霊が直観として与えてくれたり場面を設定してくれたりしてくれるのだが、そのことに気付くか気づかないかは肉体をもって地球上で生活している私たちにかかっているという事です。
 出会いとは、何も人だけではなく、本や映画、曲、絵画、芸術作品、出来事や、お金、また事故や不幸までも本人のためになることだと天上界で計画したように訪れる事柄をある程度コントロールしてくれているという。

 心を静寂にし、己の心と自問する習慣を身に着けることが大事であろうと思うのであります。

私たちは正しい想念行為に基づいて各自の今の目的に専念することが重要であり、そうすることによってあの世の守護指導霊による作用が働きやすくなるのであります。「自力の極に他力あり」「自助」「天は自ら助くる者を助く」となるのです。

とはいうものの、あの世の人々ばかり当てにしてはならない、というのも彼らもそれぞれの仕事がありあのよで修行しているのだから、その生活を侵害してはならないのであります。

 自主性が必要であり、間違った決断をし失敗したからといってもその失敗も魂の進歩のための経験であり苦しみもまた糧になるものであります。ネガティブな現象もプラスに捉えるだけの心の大きさをもつという事、つまり失敗から学び次に生かそうという心構えが大切であるとここでは記したい。

明るく楽しく素直にをモットーに今日も生き抜こうではないか・・・・
   


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2023年03月20日

苦悩を生み出す原因

 全ては原因があって結果が生じるのであるから、苦悩を生み出しているという事は自分がその原因を作っているという事になるのだ。苦悩が現れるという事は自らが正しい道を踏み外していますよという警告なのである。

 その原因は他人ではなく自分自身にあるという事。そのことに気付かないのは原因を他に転嫁したほうが楽だと思っているからなのだ。
だが、実際に苦しんでいるのはほかならぬ自分だという事をしる必要があるのだ。

 だから自己中心の心を改め、他人があって自分があり大自然の中で互いに生かされ生きているように、相互の調和が生活の基本となるようにしなければならない。

 そのためには他人の言葉を正しく聞き、いやしくも自己の感情でそれを受け取り曲解してはならぬのだ。またどんなことを言われても心の中に怒り、恨み、愚痴、情欲のこころ、虚栄のこころ、増上慢のこころなどを作らないことである。

 これらの心は潜在意識に植え付けられ、成長しようとばかりそだっていくものなのである。

 一日の終わりにこれらのことがあったか、どうかあったならそれを認識し、そのこころがどうして起こったのかを観察し・・自分の心に問いかけその根を取り除くという反省をするのだ、そうすればまず心の動きをしることによってその原因は取り除かれるのである。

 要は間違いであったと知ったならば二度とその愚を繰り返さないことである。

・・・人の心は表面意識と潜在意識に分けられていてその割合は10%の表面意識と90%の潜在意識という具合になっている。運命を司るのは90%の潜在意識の中にありそこから表面意識に影響を与えているのであるから、よい運命を手に入れたいのであればその潜在意識の活用法を学ぶことが重要なのである。

 その中にある自分自身の「性格」が今日の運命を作っているといって過言ではないのである。

 
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2023年03月17日

定年という名の引退勧告

定年制に対しての意見
 いつまでも仕事をしていたいという意見は何も経済的な問題だけではないと思うのである。
仕事を始めた最初のころというのは誰もが「見習い」であるわけだから、当然少ない技量であり、所属する組織の上司や、お客様から教わりながら段々と成長していくのであります。
 ということは、誰かに迷惑をかけながら一歩一歩階段を上るように、

 成功と失敗を繰り返しながら進んでいくのである。

 年月を経て体験を積み重ね、数々の原因と結果のありようを自らのノウハウとし、様々な人脈を築き、そうして人々のお役に立てる自分を作り上げるのである。
 あわせて、自らが関わっている業界の特殊性独自性などの理解を深めながら、共通するなんらかの法則を発見するのである。その共通性を言い表している言葉「一芸に秀は万芸に・・・」といわれているように

 私の体験上この心境は50代後半くらいにならないと、理解できないかとも思うのである。さて問題は、これらの成熟した考えや全体をみる能力を身に着けたころに定年という名の「引退勧告」をうけるというのである。

 なんともったいないことと思うのである。

 もう仕事はしない、解放される、これからはゆっくり生きようと喜びのんびりと過ごそうと思う人もいる
 あるいは、仕事を生きがいとしていた人が虚脱感に陥り何らかの趣味を持とうと無理やり何かを始める人もいる
 生きがいを亡くし日々を無駄に送る人もいる

 しかし、本来人間というものは 誰かのお役に立っているという実感があってこそ自らの存在を肯定できるという本質をもっているものだと思う、確かに趣味もよかろう、しかしその趣味が他とのふれあいのない自分だけの世界観に浸るもの寂しさを味わっている人もいるのである。

 という事は、やはり趣味とはいえど他の役に立つという事を考えてみたいと思うのである。
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2023年03月07日

生老病死について

 凡ての生命体は循環という理屈の中に存在している。
生老病死というサイクルは何も人間だけではなくすべてのものにいえるものである。

 とりわけ人は自らそのメカニズムを知っているだけに「生老病死」についての考えをつい恣意的に見てしまうのである。

エネルギーの集中固体されたものが、物質と呼ばれるものであって私たちの肉体も例外ではないのだ。という事は

 私たちも物質と言う事なのであって、同時にエネルギーであるという事になる。

 そもそもエネルギーというものは滅することはなく、ただ形状が変化するだけである という事は人間の命も変化するだけでエネルギーとして存在し続けるという事になるのだ・・という事を般若心経で述べられている。

 色即是空、空即是色というくだり。これこそが私たちの宿命なのである。要するに今の私たちの意識、エネルギーは不変であるのだという事を2500年前のシャカは説いているのである。

 つまり色不異空、
 不生不滅は心、魂は永遠に意識をもって生き続けていくのだということである。


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2023年02月24日

豊かな人生を送るためには

 豊かな人生のためには豊かな教養を身に着けることが大切。これらの教養は無論インターネットにある雑多な情報の集合体ではなく、学校における机上の知識でもない、もちろん学歴とは関係ない。
 教養というものは、過去において体験してきた生活の現実対応型によるものでなければならない。
かつて、ニーチェは「本をめくることばかりしている学者はついには、ものを考える能力をついには喪失するのである。」と述べている。
  
 教養を支える知識は書斎から得るのではなく、現実の体験から得るべきであろう。知識は屍のごときものではなく生を吹き込まれた知識と情緒や、様式と一体となったものである。

 情緒とは、ほぼ先天的に備わっている喜怒哀楽ではなく、より高次元ともいえる後天的に得られるもの、人が生まれ育った環境や教育、思想信条、習慣、五官による感度によって培われるものである。こうした環境を生きてきた人が環境の中で何を思い何を考え、どうふるまったかによって異なるのではあるが、いずれにしても「美的感覚」「もののあはれを感じるこころ」などが知らず知らずのうちに培われていて、自らの人生に影響を及ぼしているという事を知らなければならないのである。

 日本人的な心とは、弱者に対する涙、卑怯を憎む心、正義感、勇気、忍耐、誠実さなどを根本的に身に着けている民族なのであるが、昨今の「グローバリズム化推進運動」・・・多様化という名のごまかし・・によってか日本の心を忘れてしまいそうである。

 さて、豊かな人生を送るために必要な事を列記する。もちろんひとそれぞれ異なっているだろうがその満足度はともかくも項目としては
@ 体の健康維持 A 物質経済の維持 B 良好な人間関係 C 文化・芸術などに対する造詣 D 心の健康(@〜Cまでの項目に対しての安定感が作る心構えの在り方) E 最後に死生観 といったことに関してどう考えをまとめているかによって
 人生が豊かであるか貧弱であるかが判断できるのではないかと考えるのである。IMG_0079.JPG

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2023年02月22日

人生とは何か・・・プロジェクトの連続

 人生について語ろうと思いながらもはてさて、どのように表現していけばいいのか悩むのであるが、原点に立ち返ってみたいと思うのである。
何らかの意思によって我々は日々を生きている。
 凡そ、それはプロジェクトとしての位置づけを持ちながら人生における「節目節目」を支配している。そんな気がしている。
 人が生きていくに必要な知識はまず学校生活という名の体験から吸収するもいまだ机上の空論にしか過ぎないとということが実社会に於いて様々な問題解決のヒントにはなるのであるが、この時点で知識習得の努力を怠っている場合は何かと支障をきたすという。物事にはやってみなければわからないことと、やってみなくてもわかるという事がある。
 物理学上の法則などは変えようがないのである。

先人たちの数々の仕事はこの物理の法則を活用していったもので、そういった基礎の知識をもとに自らの人生を切り開いていったものと思う。それは知っていたか知らなかったのかを問わずで、すべての現象にはその原則が当てはまるのである。

プロジェクトの定義を自分なりに説明すると下記項目を満足させることとししている。


1. プロジェクトの名称を決めることで目標を明確にすること・・・・達成する事 わくわくドキドキするような目標
2. その目標を達成する期限を決めること・・・人生を価値あるものにするためにはいつまでにという期限を設けなければならない
3. 段取り・・目標達成はどういった客観的な事象に到達するか、それらを入手するためにはどんな段取りが必要かを書き出す
  その段取りの優先順位を決めよ。達成するための階段を設置しそれを乗り越えるためには一体何が必要かをあらかじめ知っておかなければならない、我々の持っている資源、仲間の存在、協力者の存在など総動員でその階段を上るすべを見つけよう シナリオをつくるわけだ
4. 実行段階・・・考えと心構えと実際の行為が三位一体となっている事、これ重要
5. 迷子になっていないかチェック・・・シナリオどうりに物事が進んでいるかを定期的に確認し必要あれば方法を変えることに躊躇するな
  但し目標は変えてはいけない

 様々な人生行路の中に於いてはこんなプロジェクトをいくつも消化しなくてはいけないのであるから、常日頃より頭を整理しておくことが肝心である。
 私の場合はノート、手帳に記入したものを毎日見直しているのである。

 オリジナルなシステム思考支援手帳をつくるのが毎年の仕事となっているのだ。IMG_2922.JPGIMG_2923.JPG
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2023年02月09日

信用と金と

 「金で信用を作ろうと思うな、信用で金を作ろうと考えよ」この言葉は紀元前528年生まれ同462年没、ギリシャの政治家テミストクレスによるものだそうだ。
 今から約2500年前の話しだという事で驚いている。
 今も十分通用する話であり、ある意味当然なことである。私たちが仕事をするときはまずどんなことで人様の、社会のお役に立てることができるかという事から始まる。
 私自身大変つらい思いを経験している。

零細のシンクタンクに勤めていた時の事、もう数十年前の話しなのであるが、当時その会社のオーナーはバブル期における投資の失敗によって多額の借金を抱えていたようだ。ようだと推測気味に語っているのは、その時に私たち約10名の社員には聞かされていなかったためでもあるが、その全貌が明らかになったのは給料の遅配が再三訪れていたことから社員が気づき始めたのであった。

 仕事はあったにもかかわらず、である。
 通常の仕事の流れとしては、ある企業の新規事業進出企画なるものを受注したとして、入金は着手金として3分の1、中間報告時
3分の1、最終納品時に残金というのが私たちがクライアントにお願いする内容となっていたのである。

 であるが、何故給料遅配になっていたのだろうか、それはオーナーが先方に(クライアント)頼み込んで着手時に全体の3分の2の金額を前倒しで入金してもらっていて、その金額を借金の返済にあてていたのだ。もちろん最終の入金額も返済に充てられていて、私たちスタッフはほとんどがただ働きだったという事になるわけである。当然社員の不満は高まり一人二人と会社を去っていったのだ、その際に未払いの給与の借用書をもらっていたそうだが、なんともはや情けない話ではあった。

 私は、といえばやめればいいもののクライアントとの橋渡しを担当していたことと、自らの仕事の後始末もぜんぜんできていないし、実は私個人名指しの(指名されている状態)仕事は結構発生していたことも相まって沈む船に乗り続けていてとうとうオーナーとオーナーの親族と私だけのチームになってしまったのであった。当然借財返済には及ばず入金かそっくり返済に充てられる、私の貯蓄も底をつきいよいよと思いやめようと決意。
 そういう私にあろうことかオーナーから借金の申し込みがあったのであった。給料もらえず、仕事はしている、出張もあるいそがしい私、
もう無茶苦茶な話だ。

 バブル期の行動そのものはまさしく金さえあればという観点から不動産投資、証券などへの投資。そしてバブル破綻、信用を失っていく「金なら返せん」という状況に陥ったという話。
 私自身は、それまでの仕事ぶりを買われいくつかのクライアントが個人的に応援してくれることになり、なんとか独立の道を歩み始めることができたのだが、オーナーの代わりに借金した金額をオーナーに貸すというまことにへんちくりんなオチが付いた。貸した金など帰ってこないと覚悟の上であったのだ。それより勉強させていただいたのだと感謝の心をもち袂をわかったのである。

まず仕事の質を上げることを第一考え、そのための勉強を怠ることなく顧客満足に貢献する事こそが金を作るコツなんだという話。逆説




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2023年02月06日

中庸について

 孔子伝による中庸という概念をまとめると、その論理を解りやすく次のように述べていられる
「近きより遠きへ、低きより高きへ」

 君子の道はたとえば遠くに行くに必ず近きよりするがごとく、たとえば高きに登るには必ず低きよりするがごとし・・・ときわめてあたりまえのことなのだが子思の言葉(孔子先生の息子)はさらに次のように補足している。

 「身近なものより調和を図るようにせよ」
 「兄弟姉妹仲良くあれば父母の安心が生まれる」と・・・そののち 礼記 大学にて治国平天下 といった儒教に於いて最も実践的な思考規範となり男子一生の目的とされてきた

 詳しくは修身、斉家、治国、平天下として現代において必須の事柄である。

 理想を実現するには目標を現実的にとらえ、順序と方法が必要であるという事なのだ。

 ・・・さて出家したゴーダマは今で考えると生まれたばかりの子供(「ラフラ」と名付けられていたラフラとは当時のインドの言葉で障害物という意)と妻を置いていったのだから、父親失格でありましてや王の位まで捨てていくわけであるから、無責任極まりない行為であろう。
 もっともその当時のインドに於いての修行僧というのは最終的には出家という道を歩むことが半ば常識化されていたともいえるのである。
 しかしながら、小国であったとはいえ一国の主の座を捨て、妻子をないがしろにしたことは事実として後世に残されていった。

 ゴーダマの父、シュットダナー王はこっそりと部下に命じ5人のクシャトリアをゴーダマの身辺警護を含めた役割をもたせ彼のもとに派遣するのであった、出来ればゴーダマを説得し連れて帰ってきてほしいとの希望もあった。
 一方ではゴーダマの一度言い出したら聞かないという気性を思うとその希望もかなわないとも思うのであった。
身分制度は厳然として当時のインドを差配していてバラモンという神官とでもいうべき存在を頂点に武士として領土を守っていたクシャトリヤのトップである王様とその家来のカテゴリ、次に商工業者であるベッシャーという具合にわかれていて最下層にシュドラーという奴隷階級があった。このなかでの位置づけとしてのゴーダマはクシャトリヤという事になっていた。

 しかしながら王の子息ゆえにバラモン教への造詣は深く当時の経典であった「ベーダ」や「ウパニシャッド」といった宗教哲学書はよく学んでいたようだ。それゆえか、世の流れや風潮、風俗、それに戦争という事態が何故引き起こされているのかといった疑問を/持つことになった
又生老病死の原因、輪廻転生の意味などをいかに解明していけばいいのかと、常々その解答を得んと悩んでいたのである。
 生まれてきた以上は常に何かとの相対によって自己を認識するという事になっていてすでに第二第三といった夫人の存在もあっての若き29歳のゴーダマにとっての欲望には限度がなく、翻弄されながらも自分を失っていくことを感じていたのであった。

 それこそ人生そのものの原点というものをつかみたいという一心での出家ではあったのだ。
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2023年02月01日

多くの人が正しいと思っている事

 正しいと自らが思っている事が他の人にとっては全然正しくなく、どう話し合ってもその溝が埋まらないときに闘争という事態が起きる。
ということは、平和を破壊するという事になって、どちらが勝利しても正しいという事は強さだという事になってしまう。

 強さこそが正しいというのであれば今の世の中で最も正しいという国は米国なのであって、その他はその正しさもどきのありように追従することが正しいのだという事になる。これは防衛費の多寡を競っているわけで、そうなると世界で2番目に正しいのは中国という事になるのではないか。

 それってどうなの?

 正しいといって世界を平和にするために闘争しているのが現実、簡単に人が死ぬという事は正しいことなのか。
現実を見ているとそう捉えざるを得ない・・
もしそれが正しいのならば、笑いのある平和な世界は正しくないということになり、人類はとうの昔に滅びていなければならないであろう。

 戦が正しいのであればそれを止める努力は必要なくて、死者の報告は喜んで発表しているはずではないかと思う
一体、正しいとは何なのだろうかと多くの賢者は過去から現代まで悩んでいるのであろう。
 こうした悩みを持つ人々の前に一人の男が登場する。

 彼は、日夜自分の領土を侵されまいと必死で軍備を整え敵からの侵入を牽制し自国の平和維持のために国民を守ろうとした国王の長男であった。彼の悩みは同じ人間同士が何故殺しあわなければならないのかという事から真の生きる道とはなんなのか、生まれてきた以上はこの戦いは仕方がないことなのだろうか、人間の使命とは一体何だろうかと疑問を持ち続け、ついには後継者の地位を捨て出家して人間の価値を知ろうとするのである。

 ゴーダマシッタルダー その物語の始まりである。
 父の名はシュット・ダナー2500年前の中インドカビラという小国の王である。
 
 小国であるため近隣の国からいつ襲われ領民に難儀が襲ってこないかを常に恐れ、抑止力のための軍備を重視しなおかつ自らの民族「シャカ族」を守るために一生をかける心構えをもった人格者であったと記録してある。
 生母はマヤ、ゴーダマを出産後わずか1週間でこの世をさり、ゴーダマの面倒はマヤの妹であるパジャパティという方にゆだねられることになった。幼きゴーダマは生母の死などを知る由もなく、実際は叔母であるパジャパティに育てられるという事になったのである。

 幼きゴーダマは生まれつきなのか、利発であり物事の理解も早く、当時のバラモンの経典であった「ベーダ」「ウパニシャッド」といつた文献に親しみ、又 クシャトリヤとして必要な剣の技術も上達していった、まさしく次期王としての資格を身に着けていったのである。

 では、こうしたゴーダマが何故出家しなければならなかったのだろうか。

 
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2023年01月29日

役割、存在意義

 それぞれの人はそれぞれの転生の過程において様々な体験を積み重ねている。
この地上界に生まれる以前は、実在界ともいわれるあの世という世界に住していたのであり、各人が発しているエネルギーという波長の振動数に合致した環境にて同じ波長の人々や自然環境の各人なりのありようの中で、魂の向上のために修行しているのだと、高橋信次師及び師の高弟の一人である園頭師に教わったのである。

 しかし、同様の波長をもっている人々、親しい人達とばかり交流していたら意思疎通が簡単であり、価値観も同様であり そのために日頃の魂の修行には時間がかかるといわれている。そこで、私たちはあの世からこの世へと生まれ、地上界の荒波にもまれるように仕込んできたのだといえる。
 この世の一年の生活から学ぶことはあの世に於いて百年の修行に匹敵すると、高橋信次師は何度も講演の際に述べられていた。

波長の荒い、この地上界において様々な問題を解決していく中で不動心を身に着けることができるか というのが今の自分の役割であり地上界に生まれてきた存在意義なのだ。

 過去犯した数多い失敗を戒めるだけではなく、その失敗の原因はいったいどこにあったのだろうかと追求し、どうあればよかったのかを見出すためにはやはりこの地上界の生活が適しているのである。あの世は意識の世界であるから不調和な思い、自己中心の思いを思った時点で即結果が現れるわけであるから、すぐ反省ができるのである。という事は長い期間苦しむことはないという事であって、そのため現在存在している波長の世界に安住してしまいがちになるのだとおそわりました。
 
 私たちが学ばなければならない課目は多岐にわたり、ある時は専門職としての一生を送りある時は事業家としての役割を持ち、またある時は奴婢のごとき一生をおくり、高度な文明の世界で平凡な一市民としての暮らしをおくり、財産家であったり、ただ黙々と働く一生であったりと主種雑多の体験をしてきているのが私たちの魂の遍歴であろう。 こうした
 こうした体験が何故必要であったか、何故必要であるかと思うであろう、疑問に思うであろう。

 それこそが私たちの役割である、「自己は神性の表現体なり」神意を体現するという使命を永遠に持ち続けているというのが使命であるからに他ならないのである。

 形而上に於いての我々世界の人類が共通に目指すものこそ調和という言葉に値する世界環境を創造することなのである。
そしてそうなるためには少なくとも長い年月が必要であり、これらの調和志向が少ない人たちの中でも構わないので綿々と引き継がれていくことが知っている者たちの使命だと思う次第である。

 こうした教えは世の中が大いに乱れた折に地上に出現された偉大な指導霊の方々が説かれたものであって、いささかも間違いはないのである.
この地球上においては三人の大天使が存在し、創造主であるところの神という存在から一切の権限を託されたものと教わっている
 
 3200年前のモーゼ、2500年前の仏陀、2000年前のイエス この3人が地球上のメシアと呼ばれているのである。

  ※ この話は高橋信次師講演より・・・

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2023年01月28日

問題の発生、原因と修正

 日々の生活の中で起きてくる問題について考えたいと思う。そもそも問題とは何かについてとりあえずの定義を求めていこう、問題とは何かという事である。
 私たちは様々な環境の中でそれぞれの立場というものがある。本質的にあるべき形というものをそれぞれの環境の中に見つけながら相応の自分を維持していることが正常だと認識しているのではないだろうか。

 問題はその維持を困難なものにしている現象が起きたときに発生するのである。まずはその現象に関して考えてみよう、問題の分類として次のことがあげられる。
 生活において必要な経済に関する問題。これは各人の暮らしに必要な物質を手に入れるための手段である通貨であったり食料であったり衣料であったり住居環境であるわけでこれらが不足しているとしたらそれが所謂経済上の問題という事になる。
 必然的に職業、仕事面と密接な関係性がある。そのため経済の問題は仕事の問題ともいえる。
問題として次に記すのは健康上の現象に関する都合である。どんな人も病気などしたくないというのは本来健康で入れるというのがあたりまえであり病気というのはあってはならないことだと認識しているからである。また病気というものは本人だけの問題でなく仕事にも影響を及ぼすし家庭生活にも影響を及ぼすのであるから、健康維持は人生においても大切な要素であることは言うまでもない。
家庭の問題としては上記(経済・健康)の他に夫婦の調和を軸に親子の関係、将来の設計を含み様々な事象に対応しなければならないといった家族の問題、主に心の交流を体験しながら安らぎのある家庭環境を構築しなければならない。

 大まかに三つに分類しそれぞれのあるべき形をどのように確認しそれらの維持のためにどう考えどのようにふるまっていくのか・・というのが私たちの目的であり万人にとって共通の使命であると考えるのである。

 それぞれの問題を原因分析するにあたって大事な点を指摘しておこう
何故この問題が起きているのか、それには今どんな現象が起きているのかをリストアップしてみよう。

 自分に関連する人たち、世間の評判、身近な人たちの自分に対するもしくは自分のなしたことに対する言動、表情などを書き出してみよう
それも、あくまでも善意の第三者の立場で冷静に書き出してみよう、あたかも自分と自分の周りの人々の関連をテレビや映画で見るように眺めてみることが重要であり、出来事によっては単なる誤解であったり、うわさや中傷によって思い込まれたりしている場合もあろうかと思うがそれも含めて自分に関係しているのだという事をまず理解していきたい。
 多くの場合問題のありかはおおよそ人間関係によって引き起こされているものだからである。
 

中には不幸にも詐欺まがいの事件にあい貴重な財産を奪われてしまった人がいたという報道があり、気の毒には思うが果たしてその被害は突発的な事象であったのだろうか、だまされた側は100%被害者だったのだろうか。そこに欲望といった自らの心があったのではないか、と反省しなければならないのも事実であろう。だまされる老人たちもいるしだまされない老人もいるわけでその差は何処にあったのかを考えてみるだけでも大いに参考になるものだ。心の在り方に起因しているのが大方である。

ある歴史のある大企業の粉飾決算が明るみに出た、もう十数年前からの状態だそうだ。何故そうなったのかを考え調べると、創業者社長の後数代も所謂サラリーマン社長という図式が定着していて社内の出世コースで勝ち残った高学歴のメンバーによってポスト争いが繰り広げられている会社だそうで、自分の任期の間は黒字決算しなければならぬとばかり小手先の財務諸表改ざんに手を染めた結果だそうだ、当然その場合は仲間の役員がいて共犯者となるわけで、その見返りという事か次の社長有力候補となっていくのである。これらを繰り返しおこなっておれば本来の業務である自社の製品の開発やブラッシュアップに力を注げ、市場に売り出すまで至らないわけで結果ある時に破綻する運命をたどるのである。これも個人の欲望のなせるわざであり、なおかつ試験という暗記力と要領の良いだけの学歴主体の人材による現実対応力、簡単に答えの見いだせない問題解決力のないリーダーを仰いだ結果である。いまそれらの会社に外資が入り込み自らのアイディンティを見失うという状態になっている。
他と比較している自らがそこにいる以上優越感と劣等感のはざまで心が揺れ動き、どっしりと自らの人生を考えることなしに生きている人こそ哀れな存在であろう。
様々な問題はどういう原因があったかを深く考え、心の修正を図っていくことか゛私たちの人生の目的そのものであることを肝に銘じたい。



※ 苦悩を生み出す原因
 
 正しい道を踏み外したときに苦悩が表れる。苦悩が表れるということは正しい道を歩んでいませんよという通知なのだ
 苦悩を生み出す原因は他人ではなく自分自身にある。このことに大抵の人が気づかないのは、原因を他人に転嫁したほうが気が楽だと錯覚している。
 だが、苦しんでいるのは自分自身であるのだ。

 人生の道は重き荷物を担いで坂を上るようなものである・・と誰かが言ったそうだがそんなことはない。軽やかにすいすいと人生を歩むというのが本来の姿なのである。それを苦悩に代えているのは常に欲望にまみれているからなのである。地位や名誉、物質、財宝、情欲への執着心こそ捨てなければならないのである。



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2023年01月26日

観察・理解・分析

 観察とは現状のあらゆる現象に対して正しく見るという事であり表面的にのみ見ていないか、見ている自分が本気であるか。見ている自分の立ち位置に固執していないか・・自分の都合の良いように見ていないか、第三者の立場で見ていないか、それらのことを基準に観察することが大切であり、誰が言ったからとか、テレビでこう言っていたからという情報では片手落ちの見方 つまり邪見という事になるのです。

 この時点で間違って観察したのである。間違いや嘘を真実と思い込むことがどれだけ次の行動を誤った方向にもっていってしまうのだという事を知らなければならい。
世界は今発信される情報そのものが偏向されているという事をしりつつあり、これが人々の観察という仕事を台無しにしてしまいます。

 自分の日々の行動範囲から得られる現象などは取るに取らない狭いことかもしれないが,その行動の裏付けとなっているきっかけはやはり情報というエッセンスなのです。その裏付けとなる情報を発信している側が何らかの意思を持ち、その情報によって人の行動を左右していくものだといった前提で意図された偏向報道をされたら一体どうなるのか、そろそろ情報の受け手である私たちはその情報の裏に何があるのかを理解するだけの知識を持っていなければならないと思う次第である。

 まずは正しく物事を見ることが大切であり、それには数値を理解する事から始め、情報発信している方たちの過去の言動や報道姿勢、身近に言えば親兄弟、友人、仕事仲間などが今までどういった心構えであってどんな行動をしていたか、言ってることと行ってることに矛盾はないかといった観点で観察していくことが正しい見方をする秘訣であるのです。
 こうした観点から様々な報道機関、政治家、教育者、宗教家を見ていくことで真偽のほどはわかるのです。

特に大事なことは、その時々の各人の情報内容、考え方の変化について必ずその変化の理由というものを発信しなければならないのであってそれがない場合は信なき発信としか思えないのである。
 
理屈が分からない困った人の発言は、その人が無知か何らかの経済の都合か、義理か、いずれかであろう、ならばその上位戦略を観なければならないのですが・・・
 立民党の安住さんの話・・統一教会と自民党の関係を徹底追及すると・・・いう事なのですがその前に自民党と公明党の関係を何故言わぬ

この事例はさっき記した項目のどれに当てはまるか考えてみてください。理屈に合わないという事を分析した。


 
posted by 筆文字や隆庵 at 21:46| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月25日

人生の使命と役割

 多くの人たちは、(特に幼いころから勉学に励まされ親の言うとおりにすることが、自らのゆくゆくの満足につながるものと信じさせられた過去を持つ) どうしても物質獲得の多寡が幸福度を高めるのだと思い込み、そのために勉強しテストの成績を競い、よい待遇を得るためにはやはり良い大学に進まなければならないと信じ、そのためには良い高校に合格しなければならぬとばかり試験に通ることを第一義として日々を過ごしてきた体験がその人格形成に大いに影響を及ぼしている。

 そのため自分自身の立身出世のみ考え、競争相手を蹴落として自分の目的を果たそうとする。そして地位・名誉をもって権力の座につこうとする。こうした人間が現代の社会のリーダー格として存在しているのである。
 もともとが自己中心であることを親から、特に母親から教えてもらっているといっても過言ではない。
 そういった環境下からとても公に貢献できる人が排出できるわけがない。

なぜならば自分の存在が自分の欲望を達成すればよいとした思想に基づいているからである。

 どのような環境下であれ人間の真の姿は自己中心的であっては社会そのものが成り立たないという事を知らなければならない
 何故ならどの時代の生活も他者の貢献があってこそであるからであり、大自然もその事を教えてくれている。
 ましてや、私たちは転生輪廻している生命であり神仏の命によって魂の修行をし神仏の体であるこの現象界に、調和のとれた世界を建設
 する使命を誰しもが持っているのである。
 つまり永遠の生命ゆえに、一時の見かけだけの華やかな人生を楽しむのではなく永遠の生命の上に立って人生の道を楽しまなければならない

大自然の循環の方式があるのと同様私たちの肉体もいずれ滅しこの地上界をさり新しい肉体である光子体という乗り物に乗ってあの世というところに帰らなければならないのである。

 一秒一秒、この瞬間の連続で時を刻んでいる。好むと好まざるとにかかわらずである。
だから、私たちは現世において悔いのない生活を送らなければならない。

 
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2023年01月23日

論理的な観察ができなくなった世間という名の無知集団

 劣化を続けるのか政治家諸君。嘘を垂れ流すマスコミ諸君、中身のない薄っぺらな知識しかない学者、芸能人など自称有識者の面々・・・・統一教会を責めているかのごとき会議を続けておりいくつかの行政指導をけんとうしているがこれは別に統一教会だけの問題ではないだろう、一体世の中にどれぐらいの数の新興宗教があるのか知らないんだろうね・・信者二世の問題だってありとあらゆる宗教団体にあるだろって想像つかないんだろうか。
 この問題は今に始まったことではなく桜田淳子さんや新体操の女子選手、仁義なき戦いの作者飯干さんの娘さん、プロ野球監督であった上田さんのご家族、単なる壺の問題以外でも多くの事態を引き起こしていたものと認識している。今回の騒動の発端は安倍元首相の暗殺事件からはじまったように思うのだ。
 マスコミや左派の学者らから連日のように誹謗中傷され、安倍悪人論を展開していたその折に、選挙遊説中にて凶弾に倒れるといった前代未聞の事件勃発に対して多少なりとも、「失敗だった、報道やりすぎだった」と慚愧の思いが湧き上がった その時に犯人が統一教会への恨み云々という話が自供によって出てきたのだ。

 前々からこの教団と政治、特に勝共連合としての反共産主義運動によってマスコミにとってにっくき岸元総理とのつながり、そして安倍さんとのつながりなどの件によってふたたび安倍批判を始めるためのきっかけをつかんだのである。いうなれば統一教会は安倍たたき材料として利用されたといっていい。
 それらの論理は無茶苦茶であり、そのことは他の宗教団体にも派生しなければならないはずなのに他は無視を決め込むといった論理性のない行為に終始していると考える。
実際に死者を出した犯罪集団であったオウムの際は破防法反対の論陣をひいていた各位が今般は統一教会に対して解散させんとばかりの論陣をはる。まったくもって何の説得性を持たないではないか、またこれらのことに触れない、政治家、マスコミ、有識者・・この矛盾に気が付いていないテレビの視聴者。無茶苦茶でござりまする・・・

 決して宗教団体を擁護するつもりはないがこの論理性のなさに呆れかえっている今日この頃である。

posted by 筆文字や隆庵 at 15:08| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月20日

過去世に関して

 万象万物はひと時も停止することなく循環を続けている。時計が刻んでいる時の流れなど一瞬のうちに過去となりあっという間に過ぎ去っていっている。と同時に私たちの肉体も刻一刻と老化の道をひた走っているのである。

 その変化していく物質を構成している生命エネルギーは不滅であり、永遠に存在しているものである。
つまり私たちも神理に従って転生輪廻を繰り返し、現在地上界に転生し今があるのである。
 50年100年と肉体をもって生きていてもいずれかは死を迎え、この地上界に肉体はおいて意識だけの世界に行かなければ
ならない宿命を持っているのです。

 意識の世界は永遠に存在しエネルギーそのものの世界ではあるが

 そこは意識の調和度により段階あり、ちょうど現代社会の通信機器が活用している波長の違いでテレビやラジオ、携帯電話などが活用している○○ヘルツなる波長それぞれの違いが物語っているようにあの世という世界は各人の持っている心の振動数にあった世界がそこに存在するのである。
 人にはすべて過去世があり現世があり来世があるという循環の仕組みからは逃れられないのである。
それぞれの人はそれぞれの魂の遍歴の中で学び神意に沿った生き方を身に着けるために何度も何度も生まれ変わり死に変わりしては学び多くの成功とそれを上回る失敗を重ね今の人格を形成しているといえる。

 縁ともいうべき存在は別名として波長共鳴に因果律が重なった結果として今があるという事を確認出来るか、その中に自らのカルマやそれによる境遇というものがあるのだと確認できるか、そのことを理解できるかが今世における目的であろうと考える次第である。

 100人が100人過去世があり来世がある。そのことを実感したときに悟りの第一歩となるのではないか・・自分の人生の使命が見いだせれば幸いだと思うこの頃・・・

 側聞ではあるが徳川家康という方は戦後俳優として日本人に勇気を与えるといった使命をもった長谷川和夫さんとして生を持ったという事。
現代において活躍している方も私たちも過去生きていたのだという事と未来を生きていかなければならないという事を理解したいと思うのてある。
posted by 筆文字や隆庵 at 22:35| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月19日

何でもない一日

 何でもない一日の、何でもない風景を目の当たりにする時、ふとした感動が湧き上がってくるときがある。
万象万物の四季折々の姿
 雪に覆われた山肌の姿は、人間の侵入を拒否するかの如く凛とした装いを見せてくれる。
 
野に咲く草花は寒い北風に耐えながら来るべき春を待っているかのごとく土中に、又は岩陰にひっそりとたたずんでいる
 この自然の姿にいとおしさを覚えるのは、人間ならではの感性・・・

淡々と日常の小さな幸せを味わおう・・ゆきの根子.jpg



 
posted by 筆文字や隆庵 at 15:31| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月18日

今この瞬間が幸福であるか

 どうすれば幸福に暮らせるのだろう。全人類の目的であろう。
この目的があるからこそ日々様々な分野で頑張っているのであろう。具体的にはどんな目標・目的をもってるのかはそれぞれの生き方によって異なっているというのは周知している。

 幸福の定義を探っていくと、それは経済的に恵まれていることであると考えられているのが現代である、
また、自らの家庭が笑顔にあふれた状況であるというのも幸福の定義上正解であろう、健康的で生き生きしているというのも
幸福の定義上正解であろう

 さて、このようになるにはどうすればよいのだろうかと考える前に人間そのものの本質の所在、あらゆる側面から研究してみるとき
一体、宗教というものが何のために存在しているのかを考えざるを得ない。ここでいう宗教とは団体や組織的な集まりをもっていて国家から法人格を得、税金の優遇を受けているものをいうのである。その宗教組織そのものの存在によって人々は幸福を獲得したのだろうか、はなはだ疑問に思うのである。 

 法華経はお釈迦様の教えより日蓮を尊び、曼荼羅を拝み題目を上げることが信仰と思い込みそうすることによって幸福になれるものと信じているのであろうか、日蓮さんの背景 生存していた時代のことを鑑みたうえでのことかよくよく考えてみたい。鎌倉時代の僧侶であった日蓮の教え、幸福を得る為のノウハウとは題目を上げることだったのか、さうすれば経済的に恵まれることになるのだろうか。家族が円満で仲良く暮らしていけるのだろうか、組織の中での葛藤とかよく聞く話で内輪もめが多いときいている。

 統一教会に関しての話しは霊感商法とかで法律の縛りをかけるそうだが、ならばその他の宗教団体も同様にしなければ矛盾となるし話題の二世信者の問題も統一教会だけではないだろう。
 創価学会、エホバの証人、比叡山、高野山、キリスト教会・・・きりがないぐらい宗教団体の数あり、であれば皆幸福になっていなければならないはずなのに、ちなみに各団体の信者合計は日本の人口を超えるらしい・・・そこに疑問を持たないのが不思議な話と思いませんか

 今の今、この瞬間が幸福であるかに関しては宗教団体の教えは全くの無力である。そもそも今回の統一教会の二世信者のことにしても
 この団体が間違っていることにきずかなければならないのに、

 もっと現実的な努力をすることが大切な信仰であると思う次第である。

 各宗教団体の教えの矛盾を色々研究中


 

 

 
posted by 筆文字や隆庵 at 22:18| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月16日

学歴という薄っぺらな概念

 低予算で作られているだろうと思われるテレビ番組が多い。その中で高学歴の芸人や一般人などが登場し物知りぶりを競っているという設定なのだが実に空虚であり、単なる知識いがいのなにものでもなくそれぞれの登場者の勉強家ぶりには感心するも、関心はない。

 学歴偏重社会が生み出したといっても過言ではない現代の社会環境は所謂この高学歴の面々によって創り出されてきたものだといえよう。
何ら変革意識のない面々を育ててきたのがペーパー試験によってつけられた点数の優劣がそのまま社会の中での主流、非主流という色分けに繫がっていったため、人品の低い己の使命感の薄い、我だけ我らだけが満足できればいいとばかりの自己主義が社会を覆っているのが現実であろう。

 学歴主義というのは試験に受かるために必要な問題解決力さえ身に着けていれば試験に受かるわけだがその際には人間が最も大切にしなければならない思いやりの心とか、助け合いの精神とか、他者との調和などの徳性などは二の次になりがちで、この領域の教育はおざなりである。
 試験問題というのは必ず答えが存在するのであるから、その答えを暗記する記憶力をいかに鍛えるかが学習のポイントである。試験に追われている若き受験生はともかくもその記憶力とか入試問題の傾向とかを暗記することが第一の課題なのである。

 それは学歴のためではなくではなく学力向上のための訓練というべきであり、体力のある若い時期に鍛えておきそののちに起きる様々な問題解決に際しての心構えや応用へと役に立つであろう。
 問題と小生思うのは学歴がすべてといった風潮のなかで、優劣が認識され勝ち組負け組という言葉がはやり、○○大卒などといってもてはやされ
あたかも一流な人間と錯覚を起こさせる、これが世界に蔓延した結果が今である。

 人間が創り出してきたとも言える各問題はその過去同じような問題に遭遇した時にどう当時の人々が対処したのか、その結果どうなったかという歴史的現実もしくは発見された物理学の法則からどのように学ぶべきかはあまり重要視されず結果だけを淡々と覚える、そんな学習にならざるを得ないとは思うが、そこが重要なのである。
 薄っぺらい学習に終始してきた戦後のエリートもどきがどう考えどう生きたかを一度検証してみることこそが現代の各界の学者、重鎮たちの仕事ではないだろうか。

 ものしりだけではせかいにとってやくにたたず
 
 しんのものしりはおうようりょくをもっている

 かせつがたてられけんしょうしていきながら もんだいてんをあきらかにするちからこそが

 もとめられているのだ もんだいがあきらかになったら そのもんだいをかいけつするための

 しゅだん ほうほうを じけいれつにあてはめていくことが たいせつ

 これらのじぎょうをすいしんしていくためにはひとのきょうりょくがふかけつ

 そのときににんげんせいがとわれるのだ
posted by 筆文字や隆庵 at 10:42| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする