2021年06月30日

思想と習慣

 世界の歴史は特定のリーダーたちの思想、習慣、五感を通した考えや人間の持つ自己中心的な行いによって現象化されたものであり、それぞれの時代という時の流れの中の、ある一点の思念と行為の結果として作られていきました。
 もともと性は善なりという事を知っていながらも知らず知らずに培われていった誤った考えの結果いまだに戦火が途絶える事のない現実が作られていっています。
 また、兵器のない戦争、情報を駆使した戦いも現在水面下で進んでいるという事も事実であります。いわゆる情報戦というもので主にマスメディアを利用した国家侵略があちこちで勃発しているのです。
 ここのところ「伝収録」を読むという書籍(吉田公平 著)から中国における思想界について考察しているのですが、中々人間とは何かといった観点から儒教という哲学的記録を読み取るとき「文化大革命」といった代物が大中華を腐らせていったと考えざるを得ないのです。

今一度考えてみよう・・・なぜかの国で四書五経なるものが生まれ人としてどう生きるかといった思想が体系化され、かつ我が国にも影響を及ぼしていったのかを・・・

 孔子が説いた論語を元に各世代の王朝は自らの栄華を磐石にしようと試みたが、本来の人間の質に気づくことなく自らの立場のみを守ろうと固執した結果次々と王朝は戦いによって取って代わられ、殺伐とした歴史を繰り返してしまったのである。
 ここで考えられるのは各王朝が学問は学問としてとらえ日常の生活にとっては、全く活用しなかったという点があげられるのではないかという事であり一切関連性を認めなくただ勉強のできるやつとして当時の官僚を存在させていたのではないか、官僚はまた出世だけを目標とした自己中であり各人がほとんど自己中心主義になってしまっていたのではないかと想像できるのであります。

これは、朱子学における格物致知を誤って活用していった時代にもあてはまるのではないかと小生はおもうのであります。

 
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2021年06月27日

陽明学からみた朱子学

 朱子学を学びし後世の人々は、格物致知という概念にて聖人となる基本は、天理そのものになることだという事をわきまえずに逆に知識の量や才能の大小ということで聖人を追求した。
 そこで、聖人は何でも知っているしどんなことでもできる人の事だから我々はぜひとも聖人の膨大な知識・才能を一つ一つものにしてこそはじめてよろしいことだと考えた。

 その結果「天理」そのものになることをなおざりにして、無意味にも精力を使い果たして書物を研究し、モノの名称を考察し、事績を調査して知識が広くなればなるほど人欲益々旺盛になり、才能力量におぼれ知が豊かになればなるほど「天理」はますます蔽われてしまった。

 知識・才能を得るための努力は否定されるものではないのだがその裏にある個の立身出世欲や財に関するためのものとなるとき人は堕落するのである。
 陽明はこの点に関して朱子学を批判したのである。
 つまり、先天的にすでに天理であるはずの私たちに後天的な個の欲という不純物を付けてしまい本来の人生の目的である人格の向上を邪魔しているのである。と論じたのである。

 ここで聖人となるための基本をわきまえていないと決めつけられているのは「朱子学徒」である。後天的に知識、学問、才力を得ることのみに努めるのはその動機によって天理から益々遠ざかるものだと王陽明は「本来聖人」を確信しきれていない朱子学を似非の性善説というのである。
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2021年06月24日

陽明学の骨子

聖人の良知は、雲一つない青空の太陽と同様に全くさえぎられていない。賢人の良知は、片雲のうかぶ空の太陽同様に一部分がさえぎられている。愚人の良知は、黒雲のたれこめる空の太陽同様にすっかりさえぎられている。このように良知の発現に明暗の違いがあるといっても、ちゃんと黒白を見分けるという点は同じである。真っ暗な夜でも物事に黒白を見分けるのは、それこそ太陽の余光がつきていないからである。苦心して学ぶという努力をするとは、この一点の明るさを基点にしてとくと考察していくことなのである。

阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」にある言葉に「蒼天かける日輪・・・」とありますがまさしくこのことなり
人もすべては雲がかかっているように見えても実は燦然と輝く日輪は常に健在であるという事です。
したがって、その曇りさえ取り除けば光り輝く善なる存在が私たちの本質である。と陽明は論じたのです。

その曇りとは自我我欲というものでありその自我にまつわる心の動きによって現象化される不都合な状態をいうのですから、それを取り除く努力をせよ・・という話なのです

さて問題はこれらの思考は学問であるか否かという論があり、確かに「朱子学」であり「陽明学」とよびあたかも学問である訳ですがもとはといえば四書五経の発展的理論なのであり日々の暮らしから政治に至るまでの段階的な成り立ち、システムを解説したものとなります。

治国平天下は斉家、修身からスタートするのだといった考えを重点的にまとめたものに朱熹と王陽明の思想が加味されたのが14世紀15世紀あたりの江戸時代に学問として入ってきたのであります。
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2021年06月23日

人元来本質即善成

 須らく人は本来善でありまごうことなく天理の存在であるはずなのに。なぜ世は乱れているのか・・・という問いに王陽明は下記の如く述べる
善は先天的で悪は後天的であるのであって、その本質は善そのものである。

 生まれたばかりの乳児には善悪の区別そのものがないように、悪という概念はその児の成長に伴う様々な体験が後天的人格を育てていくのである。周りの環境、教育、思想、習慣。そして五感という肉体的な感覚に支配されながら日々を送っていくためにだんだんと天理から離れていってしまい本質を忘れ、自己中心的な自我我欲に翻弄されていくのである。(昨今の物質至上主義をみよ)

 物そのものはその存在の性格上、入手することによりある手段を得るものであってその種類はそれこそ千差万別の代物であり、ある人にとっては、有用な手段として存在するがある人にとっては何の意味もない物として扱われるという事は枚挙にいとまがない。

 陽明学では天理に近づかんとするものはまず私欲なるものを捨てよというのである。
・・・・

 聖人が聖である理由は、人格(心)が天理そのもので人欲のまじることがないこと。この一言です。ちょうど純金が純粋である理由は、その金の純度が100%で銅や鉛が混じっていないのと同じです。
 ですから人間は天理そのものになってこそはじめて聖なのです。

モノの多寡に聖人か否か それを求めることではなくその純度こそが大事だということなのでしょう。
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2021年06月17日

朱熹の事

 朱子学も陽明学もともに「意」を「心の発する処」と定義した。
陽明は「意」を誠意と私意に区別した。
 私意は後天的であり悪を生む意となり本来完全な善であるという自らを覆ってしまうのである。
 世の中における悪といった現象ははその後天的に身についた悪癖が引き起こすものであり私意がなくなり万民がともに豊かな人生を、本来は送れるはずなのである。
 という事であり、悪は専ら根源的に「非在」なのである。
 したがって「私意」を働かせれば悪を生じさせる危険をはらみ「誠意」を働かせれば善が生じるのである。

 しかしながら現在の世界は物質主義が正義とばかりに唯一の価値観になり果てている。

 八百年前に説かれた「朱子学」・・朱熹の思想として「格物論」というのがあり世のすべてのものは天理より起因しているがゆえにそれぞれの人間が有する知識、才力の分量によって比較することを覚え、結果的に「功利主義」に堕落するのである。と陽明は朱熹の論を批判するのである。
 より多くの者を持つものが偉大であり、そのものの質に関しては問わないといった心を誘発する恐れがあると陽明は論じたのである。
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2021年06月12日

伝習録より

 人間は本来完全であり善であるという王陽明とその弟子たちによる問答を書記したものであり「陽明学」の神髄である「良知」「知行合一」がいかなる理によって成り立っているかを知る教材であります。
 凡そ「四書五経」を基本としている、人間いかにあるべきかに関しての思想哲学を元にその発展形としてより具体的な行為推進といった生き方の基本をまとめたものであり、特に「朱子学」との比較が興味深い。

 陽明は次のように述べている。人はすべからくその本質は「善」なのであるから「悪」の世界からは救われて存在せしめられている。現実にはいかほどに深刻に悪を顕現していようともそれはあくまでも非本来的要因(後天的な習得、身体的欲望など)に起因するにすぎないのであるから「本来の完全」であることを回復しさえすれば、その悪から救われるのである。そして人間は本来完全なのであるからそれを回復する能力を完全に固有するのである。

 つまり人間は自己の外に存在する救済者を必要としないのである。

 この徹底した自力主義が王陽明の思想の中核であるのです。

 一方において陽明出生時より三百数十年ほど前に説かれていた「朱子学」の提唱者「朱熹」はどのように人間の本質をとらえていたのでしょうか
朱熹もまた「性善説」主張することで「自力主義」を基本とするがそもそも「性即理」とはいうものの「心即理」とは言っていない。朱熹は心と性(創造発見力え心救済力)とは心がその性を統制下にあってこそ初めて心を介して発揮されるものと説く。

 ※「性即理」とは性・・・人間が持って生まれた本性・・・が即ち「天理」であるとする説で人間の本性は天理に適う「善」なるものである
   (性善説)という考え方である。
性とは、仁・義・礼・智・信の五常であるがこれは喜怒哀楽の「情」発達する前の未完の状態である。

 朱熹は次のように述ぺている人そのものの人生は後天的習得、身体的欲望などに深く縛されるものと苦慮し、根源来処の天理に答えを求めよ
うとしても天はものを言わない、
そのために、天理の実現者である聖人(この場合「孔子」という個別者・・・天の代理)にたいして格物に求めそれを神性化し天の意思として依存する事にて生き方を決めるという事なのです。

 実はこのことこそ陽明が朱子学を批判する骨子であったものと思われる。
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2021年06月03日

卑しい人々

 私たち自らの存在理由を考えたとき、じっくりと心の奥で考えたとき 果たしてこれでいいのかと考えたたことがあるのだろうか。今まで思ってきたことや行ってきたことが自分の心の中で、真の自分が納得しているのだろうか。毎日のようにテレビのワイドショーは誠に薄っぺらい感情によった見方であることないこと、ないことあることを各マスコミが右へ倣えといった風に報道を続けている。「武漢肺炎」という言葉はすでに死語となっているのだが、なにより国の特定をすることは差別だそうだが、いや待てよイギリス種だインド種のコロナだと堂々と述べているではないか、なにこのダブルスタンダードは、まったくもって卑しいマスコミの典型的報道姿勢である。
 一時期はコロナ感染数で過去最多だの、日々視聴者を恐れさせている報道ばかり。はっきりいって感染数とは何かの定義もあやふやで単なる陽性者の数だという事らしいし、発症者ではないという事を知らなければならないしそもそもPCR検査の信ぴょう性も70%程度だともいわれている。はたまた病床数不足だと報道しているが医師会が非協力的だともきいている。
 世界に比して日本の感染者数が「さざ波」程度と述べた識者はマスコミの集中砲火を浴びる・・・グラフをみると確かに我が国の姿はどう見てもさざ波程度であるがテレビではその部分の上にテロップがかかり見えにくくしている状態にしている。
「緊急事態宣言」の意味も一体どういう原理で進められているのかもわからない、飲食店がまるでいけにえのような仕打ちになっている。このことに関しては飲食企業から訴訟が起きているようだ。

 特定野党は政府批判とばかり対応について、あたかも政治家の仕事をしているといわんばかりに首相に詰め寄ってるのだがその論点の所在は実に軽薄であり、論理展開はあまりにお粗末。我が国では「緊急事態」といっても法的裏付けなどなく拘束力を高めるのであれば゛憲法を改正しなければならないのだがこの部分には全く触れない。
 まったくもって意味不明な政治屋の跋扈、反日的言動をあおるマスコミ、盲目的に従ってしまう国民各位。一体どうなっていくのだろうかと危惧してはいるもののユーチューブなどで発信していられる識者の存在があることを知りすこしだけホッとしてるわけである。

 今日テーマに上げた「卑しい人々」に惑わされることなく真剣に前を向いて歩きたいものです。

 ※ 卑しい人とは、自らのおかれた立場の本質を理解できず理解しようともせずただそこで得られる物質的利益にしがみつき、きゅうきゅうとしてその場にしがみついてる人のことであり、自分さえ良ければ他はどうなってもいいと薄っぺらく思っている人のことをいう。
 薄っぺらとはさしたる知識も教養もないものがその場その場の思い付きの言動で得意げになっている様をいう。
   したがって、判断材料となっているのは自らの乏しい知識や体系付けされていない自らの体験からならまだ許せるもののそもそも単なる妄言だから始末に悪い。そこには反省がないため成長もない成長がないために最終的に自らが自らを知ることもないのである。

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2021年05月26日

職業のつとめ

 世の中にはたくさんの職業があり昔から「職業に貴賤なし」といわれています。いました。といった方が良いのかもしれませんね、というのは昨今の様々な業界の中で本当に「卑しいなあ」と思う職業者、卑しいとあえて言いたい人間がいるのだ。という現実を多く見ることか゜多くなっているような気がしているからです。
 特に、高学歴でエリートだと勘違いしている似非政治家(政治屋?)それにつるんでいる学会の長たる学者たち(さしたる知識のない有識者)どの大学を出たのかが大事であり自己の成長を大学で終わらせている各界の重鎮とよばれている方たち。世代交代が進み、去っていった創業者の後を継いだサラリーマン経営者で成り立っている経済界。いずれも自分さえ良ければいいと思っている卑しい人格の持ち主ばかり。本当に世の中の役に立っている真のエリートたちの存在がわずかながら今の世界を下支えしている状況なのであろう。
 政局に翻弄され人気取りのみが仕事と思っている政治家は次の選挙で勝つことばかりに終始しマスコミにおもねるばかりで本当の国民のために仕事をしていない。与党もそうだが野党に至っては言葉もないぐらいの体たらくぶり。自分が担当している時だけは問題が起きないようにと前例ばかりを追い求め劇変している国際社会や国内問題から目を背けている官僚、自分が社長の時だけは黒字でいようと株主の伺いを立て粉飾決算を何期にもわたって行っている大企業の面々。国家に守られているのにその恩を感じず海外に拠点を移し税金を払わない輩、思想教育の権化である日教組、間違ったジェンダーなどという活動家の名を借りた日本文化の破壊者、あおるためには嘘も平気なマスコミなど枚挙にいとまがない

 そこにあるのは自らの職業の使命や役割について考えるより自らの栄耀栄華、立身出世のみを願うすこぶる野蛮で、動物的な欲の世界が繰り広げられているといって過言ではありません。さて、問題はそういった世界を垣間見ながら私たちが何を学ぶかなのであります。
 「本来の人間性」とは一体何か・・という命題を持ち続けどうあるべきなのかを考え抜いた人たちが存在したのも事実なのであって、それこそ現代まで綿々と語り継がれている様々な教えがあるわけで人類の歴史上その教えは間違った解釈などあったにもかかわらず今まで生き残っています。
 数々の名前があげられますが、まず西洋哲学、東洋哲学それぞれがキリスト教、仏教、儒教というように分けられているようには思いますが真の部分は実に共通項目が多くありイエスの言葉、仏陀の言葉、孔子を元にした四書五経とそれから派生した朱子学、陽明学などに論じられている内容は全人類の共通した「生き方の基本」「本来の人間性」を示唆したものであると確信しています。

 私はこのブログを通して真の人間の生き方に関して学んだ数々の書籍及び自らの体験をつづっています。

様々な困った出来事は天が私たちに「間違ってますよ」と教えてくれているという事を知らなければならないのです。
 

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2021年05月22日

宗教的生活

 世にいう「宗教的生活」特に職業宗教家といった人々が修行と称して毎朝のお勤めである仏壇の前の読経。はたまた神主さんの祝詞と祈りの儀式、キリスト教会では聖書や讃美歌及びそれぞれの説法。また新興宗教とよばれている各団体における生活ぶりを鑑みる時それらはどういう理由で為されているかに関して考えてみたいと思います。
 そもそもどんな理由で何を信仰しているのでしょうかね 多くの人々はまず「死という事」に関する恐れがあるのでしょう。死後の世界に関する無知から生じる言いようのない恐怖感から逃れたいといった考えが心を支配します。所詮人は例外なく死ぬのですが未知の世界と思っている以上そのことにこだわってしまうわけです。
 だから、本来の職業的宗教者や学者先生たちは死後の状態に関して知らない人々に教えてあげる必要があると思うのであるが、そは如何に。お経に残されている極楽浄土とは何?具体性のない代物なのか、形而上学にても説明されているとはとても思えず単なる方便にしか伝わらない代物になっている。
 死についての考察は当ブログにて何度も紹介していますので是非バックナンバー参照してください

 さて、現状の宗教的背景は現世利益の在り方が多くの信者にとって重要なポイントになっているようです。神社にいくとお願いごとばかり、お寺に行くと先祖供養ばかり、キリスト教会は罪を贖い天国にいくのだといった頗る自己中心的で偽善の世界、特にある宗派は聖書を学ぶことによって自分たちは、いや自分たちだけが復活するのだという愛のない世界観を持ち日々を過ごすのである・・・いずれも現実という世界をないがしろにしているのだと思う。

 一方において「潜在能力開発・・・」「成功のための瞑想法・・」などといったセミナーも形を変えた「宗教」であるといえる。確かに潜在意識云々に関しては人間の真実に近く、能力発揮の手順として正しいと思う、ただしその動機がやはり「物質主義」であることは否めない。この物質優先主義こそが人類の歴史上最も人々への影響を及ぼしたことになるのである。

 つまり物質というものを信仰している「物質教」という宗教であるといえる。

 神とは何ぞや・・神とは私たちの存在そのものの第一原因者であり、神自らの能力を私たちに与えてくれている父であり母であるわけです。
 だから本来私たちは元々の自分に帰らなければ心が落ち着かないのです。こころ優先であり物質は二の次であることを知り、今を生きていく 
 そのことを自覚し実行すると必要な「物質」は与えられるものです。

 次回・・・卑しい仕事についての考察


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2021年05月19日

心の形


  −肉体の形があるように、心の形があるのだという事を高橋信次師著の「心の原点」より教えられたのです。

その形は次のように述べられている。

 心の領域には感情の領域、本能の領域、知性の領域、理性の領域とがありそれぞれが本来は丸くバランスが取れているのです。

この4領域をまとめ意思として管理しているのが想念帯ともいうべき意識の中心であり過去世から今までの人生のすべてが記録されているわけでここにすべての運命の原因となるべく思ったことや行ったことの元が集約されているのです。

 日々の生活環境の中においては、五感という機能が働き様々な現象を目の当たりにするところから始まるのですが、その五感を通してどのように思うのか、そしてどう行動するのかといった順序で生命活動が行われていきます。
 問題は、各領域単独で行動のための意思が働く場合に多くの問題を生み出していくという事なのです。かつて明治の文豪夏目漱石は「情にさおさせば流される、知に働けば角が立つ・・とかくこの世は住みにくい」といった。
 また、本能が単独で働いたり感情が単独で働いたらと考えたら少なくとも円満な人生を送ることが困難になってしまうでしょう。かといって理性の領域が強く働けば頑固おやじという事で融通が利かなさそうだし知性だけだと冷酷さが表面に現われるものです。要するに円満でバランスのとれた人生を楽しむためには、それぞれの心の領域がまんべんなく働く環境を各人が創造していくことが肝要なのです。

 ある時はマスコミの嘘情報に腹が立ち心の形をゆがませる、ある時は他人から誹謗中傷を受け腹が立つ、またある時は意見の違い等で争うはめになる、それぞれを単独の心で受け取るときにおきるものです。
 この時の心はひずみを作っており正しい判断が出来ない状況を生み出します。 
結果的に自己中心的な考え方になってしまうのです。

 昨今の私の心のひずみは何が原因なんだろう・・・といったことを考えなければならない
posted by 筆文字や隆庵 at 13:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月13日

全体と部分

 わたし達を取り巻いている様々な社会環境の一丁目一番地は生命を維持するための食の確保であります。
創造主の神は動物植物鉱物のそれぞれの命を循環という名の仕組みの中でのみ維持できるよう計画された。地球上に於いての様々な現象を考えてみればおのずと理解できよう。
 動物は酸素を吸収し二酸化炭素を吐き出すことによって二酸化酸素を吸って酸素を提供する植物の生命を維持させている。相互関係の中に生命の本質があるのだという事を理解しなければならないでしょう。

 こうした相互作用のメカニズムがすべての現象に応用されているわけですから、自分さえ良ければいいんだという考えがどれだけバランスを欠いた思考であるか分かりましょう

 物事の原理原則が相互作用の中にあり森羅万象が常に一定のリズムで働いているという事を思った時にこのシステムを作られた神の存在を思わなければならない。
 偶然に存在しているものは何一つないのである。
 さて「全体と部分」について考えてみたいと思います。昨今世界を席巻している「武漢肺炎ウィルス」の猛威について我が国における情報発信の在り方についてなにかと不手際を感じているのは私だけではないでしょう。部分情報がわずか数十センチのテレビという箱から流れ出ていてそのことに右往左往している人たちがいる。
 最近はネットという媒体が存在しているもののまだまだ世論を動かすまでには至っていないし60代以上の高齢者においては全くの情報弱者といえよう。

 お経の中に「群盲像をなでる」という教えがあります。目の不自由な方が像をなで尻尾を掴むとある者「像とはひものようなもの」といい、耳をなでた者は「像とは風呂敷のようなもの」といいはたまた足をなでた者は「像とははしらのようなもの」といったという話であります。わずかな部分だけを捉えて全体を見る事の愚かしさをたとえ話になぞらえた教えなのでしょう、それと同様なことが現在世界で起きているようです。つまり「マスコミ」による情報だけに頼ると本来とは異なった理解が蔓延するという事です。
 今現在「コロナウィルス」といった現象について様々な情報が流されていますがそれって妥当なものでしょうか、日々の発表の中でいわれる感染者とはどういう定義でいわれているのかについて知っている人いますか?ワイドショーやニュースは「大変だ大変だ」と騒ぐのみで本当の事実は伏せられているのではないかと疑ってしまいます。
 何故なら、感染者の定義として陽性者と感染者とどう異なるのか、重症者の定義、死者の定義などその仕組みを一切報じないのはおかしいと思う。
 例えば、pcr検査での結果水準の是非どの程度のウィルスの数なのか、陽性者=感染者なのか、混同されているようです。また重症患者のうち死亡に至った経緯や年齢の分布、などなど大いに疑問があるわけですから国民に自粛要請し暮らしに制約を設けるのならば知りうる情報は公開すべきです。

さもなければ、私たちが「群盲像をなでる」現象に陥らないように情報リテラシーを持つことが大事だと思う今日この頃であります。それには私たちそれぞれが教養を身につける必要があるという事です。
 教養とは学歴ではなく人が人として当たり前に生きていくために必要な技術や体験から学んできた常識というものです。
正しく見るというお釈迦様の八正道を実践していきたいものです。
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2021年05月11日

利他愛の実践


利他愛の実践こそが霊的成長の道であります。紛れもなく私たちは神の子であり好むと好まざるにかかわらず神の法則の枠から逃れることはできません、例外なくです。つまり物理学でいうところの原因結果・作用反作用の法の中に私たちが存在していることは疑いのない事実なのであります。
お釈迦様は「善因善我・悪因悪果」といわれてます。イエス様は「まかぬ種は生えぬ」といわれています。
 利他愛は創造主である神の愛を実践することが私たちの霊的成長に欠かせない徳目であるといえます。その実践がないところに霊的成長はなく、どれだけ仏典や聖書の知識があろうとも実践なき所に成長はないのです。

 シルバーパーチ曰く
「宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも、神の愛があればこそです。全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が、自分の愛する者だけでなく、血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差し伸べんとする同胞愛に燃えます。愛は自分より不幸な者へ向けて、自然に手を差しのべさせるものです。
 全生命の極致であり全生命の根源であるところの愛はより一層の表現を求めてね人間の一人一人を通して地上に流れ込みます。
好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感の持てない人を愛する・・・これが魂の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差し伸べる事。これは容易ではありません。しかし、この難しいことを為そうと理想を掲げ目標としなければなりません・・・・「汝の敵を愛せよ」

 かわいそうにと思える人々に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心のあった人に同情する。これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。最高の徳は利他愛です。愛すべきだから愛する。愛こそ神の摂理を成就することであるがゆえに愛する。愛するという事以外に表現の方法がないから愛するまでです。
 神は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。向上進化の果てには、己のためには何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界にたどり着きます。ただ施すのみの世界です。

我欲を捨て、他人のために自分を犠牲にすればするほど、内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。真の愛は、人のために尽くし、人を支え人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた滅私と犠牲の行為となって表れます。
 愛の真の意義を悟るのは霊の世界に来てからです。何故なら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。神の顕現なのです。互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。愛は己のために何も求めないのです。


以上、シルバーパーチの゛愛゛についての説明を見てきましたが「利他愛」こそが「神の愛」であり、霊的成長の決め手であるという事がご理解いただけたと思います。
人類は地上に誕生して以来今日に至るまで、宗教・道徳・哲学によってより良い生き方、より価値のある生き方、より崇高な生き方を模索してきましたがその答えはー「利他愛の実践」という簡単な言葉の中にすべて含まれることになります。あらゆる宗教の教えは、この利他愛の実践という極めてシンプルな教訓の中に収斂されることになります。
古今東西の古文書や仏典や聖書を小難しく説明する必要などなくただ「利他愛の実践」こそが真実の宗教的生き方なのです。

 宗教の宗という文字はうかんむりに示すと描きます・・宇宙を示すという意味で教は教え、つまり宇宙の仕組みを示す教えという言葉が
 宗教という意味になるのです。
posted by 筆文字や隆庵 at 11:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月06日

日常の中にこそ神の栄光あり

 しいてゆうならばこの大宇宙体そのものが神の体であり、この大宇宙、森羅万象を司っている意識が神の意思なのです。
改めて私たちが襟を正し、また体を清潔にし、神妙なる心持で聖書を読み聖句を唱えいかにも信心深いふるまいをしようとして神のご加護を得るのだと思ってみてもそれは神の前では全く無意味だとはいえないものの、その思いを描く人が真に正しい道を歩んでいるかはその人の日常生活の有様をみれば容易に想像がつくものです。
 神よ仏よと言いながら果たして心の中はどうなんでしょうか、他人によく見てもらおうと思って行為していないだろうか、善なる心は本物なのだろうか常に考えなければならない事だと思っています。

 私見ではありますが信仰深いと自他ともに思い込んでいる方たちの態度がどうも偽善に思えて仕方がないのであります。
 日常生活の中だから淡々と幸福の道を歩めばよいのであって、その幸福の道こそが信仰の道なのであります。
 それには私たちの周りに発生する様々な出来事にうろたえることなく適宜思考し行為することで「調和」を維持し楽しいはずの人生を
 歩んでいきたいものです。
 その為には3っつの要素に関しての調和・バランスをとるための努力をしていかなければならないでしょう
 大きく3っっとしましたがそれは 1. 肉体の健康 2. 経済の健康 そして3.精神の健康

さらにこの3っつを維持するためには、家庭、仕事、人間関係、またそのことを充足させるための一般常識、教養、文化、科学など
知るべきを知るという事が大切なのであります。

posted by 筆文字や隆庵 at 12:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月03日

神の愛を感じるとき

 神によって創造された世界には、神の愛が遍く及んでいます。神の愛は、すべての存在物、生命体、意識体を包んでいます。神はその愛から、ご自分が造られた万物を維持・支配するシステムを設けられました。それが「神の摂理・法則」です。神はこの法則によって宇宙・霊界に調和と秩序をもたらしています。神はこの法則を通じて、人間に臨んでいます。そのためすべての人間が神によって「完全平等・完全公平」によって愛され扱われることになります。「神の愛」の平等性は、摂理の支配というシステムの中で成就されているのです。

 霊界に於いては特に神の存在を疑ったり否定するものはいません。それは物質世界という鈍重なバイブレーションで成り立っている地上界とは違って「神の愛」が実感をもって認識されるために、神の存在を否定しようにも否定できないからです。地上で生きている者が自分たちの周りに存在する空気の存在を疑うことがないように、それと同じように霊界人の中で神の存在を疑うものはいません。
 地上における感覚がもっと研ぎ澄まされて状態で神の愛を感じるのです。

 その「神の愛」の本質とは一体どのようなものなのでしょうか
 宇宙・霊界の万物を創造された神は人間にとって「霊的親」でありその愛は「親の愛」以外の何物でもありません。親は子供の幸福を何より望みます。自分の幸せよりも子供の幸せを真っ先に望みます。親は子供が幸せになった姿を見たとき、はじめて自分も幸せになれるのです。

 神の愛は、自分の事よりも相手のことを先に心配する愛であり、自分よりも先に相手の幸せを願う愛です。そしてそこには見返りや打算などは一切ありません「無所得の愛」であり、完全な利他性と無償性が、神の愛の本質なのです。

こうしてみると現代におけるいろんな宗教にある教えって変なのばかりですよね・・・
posted by 筆文字や隆庵 at 10:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月28日

神の愛

 宇宙と霊界に遍在する「神の愛」とは一体どのようなものでしょうか。という前に「神」とは何でしょうか、そもそも名前などあるのでしょうか、そもそもそんなものは架空の世界の話であって存在すらわからないもので、あくまでも人間が想像した産物、形而上学の中にあるものと考えているのではないでしょうか。
 現代科学では凡そ46億年前に宇宙がビッグバンによって誕生したといわれていますが、それ以前はどうなっていたのでしょうか、何かが宇宙を創成したのだというのが聖書創世記に書き下ろされ、また日本の神話においても古事記の冒頭は国造りの在り方が擬人的に記述されています。時とところを替え人種の境界もなくほぼ同じように記録があるという事に不思議さを思わずにいられません。その何かを便宜上「神」と呼んでいるわけです。即ち「ありてあるもの」という解釈が最もその存在を言い当てているような気がします。

 永い人類史上で神はどういう言われ方や存在が認められてきたのでしょうか、多くは神の意識の仲介者であると自認している「教会」「神社」「仏閣」などに祀られている者が神であるといわれてきました。その場合神には人格があり、性格があり、好き嫌いがあり、民族間格差がありという具合に勝手に仲介者によって解釈がなされその多くが現在まで影響を及ぼしています。

 このブログで紹介している「シルバーパーチ」は次のように述べているのです。
私達は一片の信条、一冊の経典、一宗一派にこだわるものではない。ただ生命である神、その永遠の法、これに命を捧げるものである。

 つまりは○○教とかは一切関係なくただありてある「神の愛」によつて生きているという事を実感するのみであります。

また、天地創造の順序方法に関しては「人間釈迦T」高橋信次著 157頁 お釈迦様の偉大なる悟りに詳しく描写されています

・・・この大宇宙は神によってつくられた。大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。神はその意識の中で意思を持たれた。大宇宙の創造は、神の意思によって始まった。
意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。意識界の宇宙はその意思をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこの二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。神の意識は、永遠の調和を目指し、そうして、二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。
 人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意識を受け継ぐ万物の霊長として産声を上げた。人間の誕生は、意識界という実在の宇宙に、まず姿を現した。そうして、神の意思である調和を目指す神の子として、物質界に降り立ったのである。物質界に降り立った人間を、地上のめで見るならば、大地の片隅に忽然と物質化されたといえるだろう。人間以外の動物・植物・鉱物もこうしたプロセスを経て大地に姿を現した・・・・

 是非ご一読あれ

 とにもかくにも私たちは神の意思によって地上界と霊界を行き来しているのです。
 このことが「神の愛」を知るために必要なのです

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posted by 筆文字や隆庵 at 10:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする