2023年05月31日

自助努力と天の助力

 この世にある多くの宗教、また様々な社会人教育のカリスマ的リーダーの存在そのものが私たちに経済的利益を与えてくれるのであり、努力することなしに栄華を極めることができるのだなどと、思ってはいけないのである。
 「天と地を結ぶ電話」の中でアガシャーはこう述べている。

「あなたの指導者はあなたがあなた自身何ら努力しないときには、あなたのために何一つすることはできないのである」と・・・

 あなたの魂は、あなたの最も偉大なる指導者である。そしていかなる外界の指導者のいかなる努力もそれは、魂の智慧を開発する方向に向けられ、その智慧をあなたの客観的意識にまで持ちきたろうとするだけなのである。
実相に於いてあなたの魂は凡てを知っているのである。なぜならあなたの魂は偉大なる普遍的神の意識の一部であるからである。

 これらの一連の文章から次のことが導かれる。

「あなたの指導者はあなたがあなた自身何ら努力しないときには、あなたのために何一つすることはできないのである」



 という事はあなた自身が努力することをいとはず前進を試みる時にはしてあげることができるということでもあるのである。

 高橋信次師は「心の発見 神理編 155頁」にて次のように述べていられる

 ※最善の努力をしている人に対しては必ず私たちに関連の深い実在界(あの世)の人々によって常に協力がなされていることを忘れてはいけない。
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2023年05月30日

承前 言い争い補足

 他を傷つけるこころ(意識)を表現すればそのこころは全て反作用を生み出して結局自分で自分の間違いを悟るような運命を惹き起こすのであるという事を次第に認識するようになるのである。

 目的が調和であるならば手段も調和でなければならない。なぜなら手段とはある段階においてそれ自体が目的になっており、もし不調和を生み出すような手段を実行したならばそれは不調和をもたらすといった矛盾したことになるからである。

 先にあったお互いの主張というのは結局一人の人間に於いて学ぶべき事態をもって、本来の自分の利益は他人の利益につながっていき問題の解決はお互いが調和するという根底に立たなければならないのである。

 すなわち賢明な思慮深い親切な思いやり、あるいは完全なる理解をもった無私の我の存在というぐあいに、調和へ向かう法則を理解するということが正法の神髄であるのであるとの理解と体得が悟りへの道である。

人々が他人に対して為すことは、同時に彼らの影の不完全さを知っている奥の心・・すなわち完全な「キリストの心」をあらわすために為しつつあることになるのであって、それは結局自分自身に対して為すことになるのである。

 そこで所謂想念と行為が宇宙の設計(プラン)とどのくらい調和しているかによって各人の上に反作用を及ぼしてくるという法則が存在している
という事なのであって

 この宇宙設計によると人間が憎しみにみちた不調和な自己表現をする時は必ず自己の上にそれと同じ反作用が還ってくるのだ。 
もっと正確にいうと

 ひとと不調和にしていて自分だけがとくをすることはあり得ないということであり別名を「償いの法則」というのである。





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2023年05月29日

原理原則としての正法

 「あの世」は、ある。実在世界と現象世界を行ったり来たりしているのが私たちの実態。
 転生輪廻、循環の法に沿っている。・・・という事

 私たちの意識は表面意識と潜在意識があり、通常の生活に使用している意識は全体の意識の10%という事であり、残りの90%の意識は
 普段は使われていないのだという事・・・阿頼耶識と呼ぶこともある。我々は日々の生活の中で活用している五感というものによってか様々な情報を

この世界が一瞬先は闇だという所以がそこにある。

私たちが今ここに存在しているというその意味は、
日々の暮らしの中でおきる多くの失敗事例、所謂影の部分を体験することによって、自らの本性。神の子であるという事を自覚しなければならないというために地上界という環境が神によって創造されているのである。

 と「天と地を結ぶ電話」の中で指導霊「アガシャー」が述べていられるのである。

例えば皆がいい争い、お互いの主張をぶつけ合い、譲り合うという事をしなかったら結局のところおのずから間違いの道を進むという事は目に見えているのである。

 集団がお互いに関係しあっている事から、形の相関性というものが明らかになりあらゆる物質的表現の間に完全なる調和がもたらせることが終局の理想となるわけではあるが、そのことが解るまでには人々は多くの遅々たる進歩発展の周期を経験をする必要があるからこそ、実在界と現象界を何度も行ったり来たりしながら本生を修正しなくてはならなくなっているのである。

 



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2023年05月12日

諦める事

 釈尊が説いた四諦、四つの諦めること・諦めることとは自らの力ではどうとも止められない現象の事。

 生老病死という現象についてはどれだけ各人が努力しようと止められないのであるという事。悩みの始まりは生まれてきたという事。生まれてきた瞬間から

 人は老いていく、老いていきたくないと思っても・・年は取りたくないといっても年は取るし、病気はしたくないといっても病気はするし死にたくないといっても万物全て死の運命は避けられないのです。

 ですから、これらの状態一つ一つを止めようと思って止められた人は一人もいません・・・だからそんな現象に執着を持つものではないと釈尊は伝えています。執着を持ってもとどめられない現象だから、「仕方がない」のです

 死にたくないといっていられる多くの老人を知っています。でも結果として死ぬのです、意志に関係ありません

 所感にて伝えたい事柄はずばりこの生老病死が避けられないけれども、そもそも人の魂というか心というか目に見えないけれど異なった次元の住人になって永遠に個性を持った人間として存在するのだという事をまず記していきます。

 我々の生命活動の根源は実は死後の世界にあって、その世界での存在の中では生老病死という凝り固まった前提条件をひっくり返すことでしょう。その世界に「生老病死」などという物質的なプロセスはないのです。

あるのは、波長の世界。自らが発するオーラの波長に合っている世界に我々はそれぞれが意識をもって、個性をもって存在している。というよりその波長の世界にて生活をしているといえます。

 我々が今生きている環境にしても実はその波長の世界に生きているという事を実感しているひとは数多いでしょう。波長の合う人々やその出来事にストレスを感じることは少なく、波長の合わない人々との交流はストレスを感じるでしょう。

 これが波長共鳴の法則の存在の証明となりうる現象ですよね

 「生老病死」の苦しみから解脱するには、という話ですがそもそもそこには苦しみはないのだという立場にいかに立てるかが最大のポイント
そして、思考を止めてしまうという習慣を見直す必要があるのです。

 本来「死」というものはありません、我々は肉体を持った生とあの世の生と二元性を持っているのであると釈尊は言っておられるのであります。今肉体をもって生活をしていてその肉体の眼で見ているものがすべてであると思うのでなく、目に見えている現象は目に見えない世界で形づくられているという事を、まず仮説として考えてみて思考を深めていく、そんな事を思った一日でした。
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2023年05月08日

偉大なる指導者

 歴史上多くの聖者といわれる方が現れ、人の正しい生き方について述べられている。

にもかかわらず現状の体たらく。それはなぜか・・・

 人が本来求めていないものを求めなければならないような仕組みがいつのころか出来上がっているわけであり
その根本は肉体そのものが人だ・・という考え方に支配されているから

 どうあがいても死というものを免れないのだといった現実・・・それは否定しようが必然として死は存在するのであるから
正直に受け入れればいいのに

 ずっと生きていたいと思うのである

大きな誤りである。人は絶対死ぬのであるから。・・・私たちの生き方は・・・などという

実は私たちではなく、「私」という「個」の話しなのである。

 生まれてくるのも死んでいくのも「個」の究極の姿であるのです。悲しみ、哀しみ、恐怖、孤独観、寂しさ、楽しみと楽しみを永続的に受け  
取りたいという心、

 そんなこんなを胸にとどめながら多くの人は「死」という現実を迎える・・・新たな問題はそこから始まるのである。

 あの世という世界があるのだな・・という認識を持っている人が増えてきているとは思うのであるがどうも根本的な過ちを犯しているようだ

 確かに人は全てその魂を失う事はない、信じる宗教や、あの世を信じない現実、死んだら無になるのだと信じている人、にかかわらず誰もが

 死なないのである。物質を持っているか、つまり肉体を持っているか、持っていないかにその違いがあるわけであって100%人は有する形は違えど
 死んではいないのである。

 そのようになってるのである。

 私とはいったいどうなっているのであろうか、確かに五体はある。五官もある、考える力もある。現実の問題点を図る思考もある、明日への希望も持つことができる。と同時に絶望も持つことができる 

 ある時不思議な講演をきいた

もう数十年になるか、40代後半の男性がある人の頭の周りを掌で円を描きながらいう「シャカが2000年前臨終の場て゜なんといったか、あなたは知っていますね。そうです心の窓を開いて当時のことを語ってください・・・」男性は声を振り絞るように語る「その時仏陀は、今私は今世に於いてそなたたちに言っておく、今仏陀は涅槃に入るが魂は永遠であるゆえに常に法とともにそなたたちとともにあるという事を思え、肉体は滅びるのはつねであるが、この世から去ったととしても永遠に生き続けているのだよ・・」さらに「アナンよ何故そなたは泣くのだ、泣くという事はそなたが持っている肉体に対する執着なのだよ・・・」

 と仏陀ゴーダマはそのように述べられました

高橋信次講演テープより抜粋

指導された男性は2000年前の過去生釈迦の十大弟子のひとり「アナン」といわれた方で、この時は京都在住の方でした。

 ということから。肉体の死はあっても心、魂はその個性を持ったまま永遠に生き続けているのだと、高橋信次師より指導されたものと考えるのである。

 






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2023年04月17日

スピリチュアルの話し

 世にある少なからずの霊媒の存在は、あの世からの「霊界通信」を行うといったいわゆる電話器のようなものである。
書物になって記録されているそれぞれの事件、出来事を検討してみると、別世界との通信のうらには非常に重要な、深い意味があるということを教えられるのである。

 その際、その通信の内容に関しては注意を向けどのような内容が語られているかは吟味しなくてはならないのは当然である。
次元の異なる世界からの話しにしても現実の地上世界に於いての常識的判断によってその質は理解できるものと考えられるので、知性的に霊媒の信ずべきことを確かめ始めると、疑問は次から次へと湧いてくるでありましょう。

霊界とはどのようなものであろうか?そこにおける活動力は何であろうか、又一定の場所のことなのか、或る状態のことを指すのか、天国とか地獄とかはどんなものなのだろうか・・・と「現世」を去ったら我々は何処に存在するのか、地上世界の心配事はどうなるのか、その意味は何かなどと疑問にはきりがなく、そもそも我々の言葉そのものは抽象的真理を説明するのには不適当であり、霊界の通信においてもその言語の制約を受けるためか、かなり霊人?も苦労されているようである。
 
 とはいうものの、現に霊界の存在がある以上、何らかの方法をもってという方法を学びつつある霊人であることは間違いないことなのである。
 
所謂大指導霊という存在からの通信を受けていた「リチャードゼナー」による霊界通信が最も格調高く、その内容の哲学性、などは古今東西におけるあらゆる宗教のもとのもと、真理そのものの内容である事から有意義な霊媒による「通信」であるのだ。・・・と「天と地を結ぶ電話」日本   教文社 に述されている。

 「リチャードゼナー」による神霊会においてゼナーにかかってくる指導霊は、進歩した魂の尊厳さや実践的かつ超越的なオーラを発する存在であり主たる霊人は「アガシャー」と名乗る大指導霊だという事である。(BC地上に生を得たイエスキリストであると高橋信次師談)
 アガシャー曰く「あなたの魂こそが最も偉大であり、あなたの霊的指導者はあなたが自身で何ら努力しないときにはあなたのために何一つすることはできないのである」 これは我々が高い世界の指導霊から実質的な指導を受けられないという事ではなく、意識が高級な指導霊と同期している人はそれに従って感応し、霊感をもってしての援助があるのである。

「天はみずから助けるものを助ける」ということで「自力の極に他力あり」ともいうのである。

 ある音楽指導霊の導きに耳を傾けている音楽家は、自分の内部に新しい大作品となりうるものを霊感的に聴くことができるのである。
 また指導者は道を指示し方法を示唆することもあるかもしれない、たびたび睡眠中や瞑想中におとずれる直観がそれかもしれないのであるが
 そのことに気付き実践の有無を選択したりは自らおこなうものであり、指導者があなたの代わりに行為するという事はないのである。
 なぜなら、あらゆる天使たちやすべての指導霊も我々自身と同じく個の生命にすぎないのであって、我々のみる範囲内では我々と何ら変わらないものであるが、ただ一つ大きく異なる点は諸々の経験を通して悟りえた範囲が地上にいる我々が依然として迷妄の暗い雰囲気、オーラに包み込まれているに反して、彼らは宇宙の一なるものをさとっているという事なのである。

 さらに彼ら指導霊たちを指導している存在彼らが「天の父」ともいう無限の存在「ありてあるもの」を世界の遥かなる領域にもっているので ある。
  
 秩序ある世界であり、愛の世界なのである。


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2023年04月06日

今の人生を終えたら

 私たちの死亡率は100%であります。
 ところで、死後の世界にというよりあの世に還った私たちは、どこに行くのでしょうか。

 それぞれの魂はその魂の持つバイブレーションにあった世界に当面は存在するという事を何度も教わってきました。
 それぞれの一生の中で何を考えどう行動し、どんな結果を得てその結果をどう受け止めたか、ネガティブに思ったかポジティブに前向きにとらえてきたか、その一生中で作り上げてきた己の本性が創り上げた振動数に応じた場所に在することになっているのであります。

 天国と地獄のいずれに住するかは、自分自身の行為の結果が現してるという事を知らなければいけないのです。
 
 天国一言で言ってもその領域は無限に広く、この地球上という三次元世界に近い波長に合っている世界から太陽系全部を見渡せる波長の世界に至るまで、全宇宙を見渡せる世界などあるようです。
 一方地獄の世界も幾層にも分かれ、今現在「ルシフェル・サタン」による力を軸にした世界が繰り広げられているという事を教わりました。

 うらみつらみ、非建設的な不平不満、愚痴、足ることを知らない物質欲にまみれた人生を送ってきた人達、戦争の計画者、情欲、殺人、自己中心、間違った宗教指導者とその信者、等そのような心を持ち続けた結果、それぞれの発信する思いのバイブレーションに応じた世界が目前に繰り広げられるというのです。

 しかしいずれは全ての人は救われ、明るい天国に還ることができるのですが、内容によって地球上の年数で何百年も苦しんでいる場合もあるようです。
 心が軽やかであり、執着のない人生を歩んできた人は天国の門が開くのですがたいていの人は少しだけ地獄をのぞかせられるらしいです。

 スピリチュアルの世界観・・・というものの知っている知っていない関係なく誰もが例外なく同じプロセスで天上界に向かうことになる という。信じている宗教などに関係なく当人の心の状態のままの世界へ当初は住するようです。

 高橋信次 著「心の発見」には次のような文章があります

 ※ この地球上の西側の天上界に住んでおられる「光の天使」の家を訪問したときのそこは、小高い丘の上新緑の樹木に囲まれたドーム型の大きな屋敷であった・・・・高橋先生は肉体を地球上においたまま心は天上界に覚醒したまま往来ができるという能力をお持ちでした

 私の友人であった方で高橋先生ご存命の折、一緒に「禅定・瞑想」に入られるときにこうおっしゃいましたと、聞いたことがあります。

 先生科白「今から私の心は天上界に行きます、ついてこられる方はついてきなさい」・・・と つまり幽体離脱してついてきなさいという話でした。

 とは申しても私たちの本来の目的はそこにあるのでしょうか、物事には順序と時期というものがあり最もふさわしい時期にならないとそうはいかないというのが現実的です。あと何回か何十回か、何百回かの転生が必要なんではないだろうかと思う次第であります。

 さて、題にあります「今の人生を終えたら」について書いてみたいと思います。

 もともと、私たちはこの世に生まれる前の天上界にて、次のような計画を立てます。あの世といわれるところも役所があり(心の発見による)
登録制というものが存在しこの世に生まれてくる目的などの計画を提出するらしいのです。もちろん申請する本人の希望が重視されることは言うまでもないことであるが、当然肉体的に関係の深かった人々や、自分が悟れる環境を選ぶのである。
その計画の内容は以下

 1. 生まれる環境に関して・・・国、時代、両親、家族構成、配偶者、子供等

 2. 身体的な条件    ・・・体格、容姿、健康状態、障害の有無

 3. 能力        ・・・身体的、精神的なもの・・・過去世からの影響を受けている

   そして
 4. 人生での重要な出会いやタイミング、出来事などを設定するが肝心なことはその際に自分がどう対応するかはこの時点では未定

 天上界から自らのガイド 守護霊・指導霊が直観として与えてくれたり場面を設定してくれたりしてくれるのだが、そのことに気付くか気づかないかは肉体をもって地球上で生活している私たちにかかっているという事です。
 出会いとは、何も人だけではなく、本や映画、曲、絵画、芸術作品、出来事や、お金、また事故や不幸までも本人のためになることだと天上界で計画したように訪れる事柄をある程度コントロールしてくれているという。

 心を静寂にし、己の心と自問する習慣を身に着けることが大事であろうと思うのであります。

私たちは正しい想念行為に基づいて各自の今の目的に専念することが重要であり、そうすることによってあの世の守護指導霊による作用が働きやすくなるのであります。「自力の極に他力あり」「自助」「天は自ら助くる者を助く」となるのです。

とはいうものの、あの世の人々ばかり当てにしてはならない、というのも彼らもそれぞれの仕事がありあのよで修行しているのだから、その生活を侵害してはならないのであります。

 自主性が必要であり、間違った決断をし失敗したからといってもその失敗も魂の進歩のための経験であり苦しみもまた糧になるものであります。ネガティブな現象もプラスに捉えるだけの心の大きさをもつという事、つまり失敗から学び次に生かそうという心構えが大切であるとここでは記したい。

明るく楽しく素直にをモットーに今日も生き抜こうではないか・・・・
   


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2023年03月20日

苦悩を生み出す原因

 全ては原因があって結果が生じるのであるから、苦悩を生み出しているという事は自分がその原因を作っているという事になるのだ。苦悩が現れるという事は自らが正しい道を踏み外していますよという警告なのである。

 その原因は他人ではなく自分自身にあるという事。そのことに気付かないのは原因を他に転嫁したほうが楽だと思っているからなのだ。
だが、実際に苦しんでいるのはほかならぬ自分だという事をしる必要があるのだ。

 だから自己中心の心を改め、他人があって自分があり大自然の中で互いに生かされ生きているように、相互の調和が生活の基本となるようにしなければならない。

 そのためには他人の言葉を正しく聞き、いやしくも自己の感情でそれを受け取り曲解してはならぬのだ。またどんなことを言われても心の中に怒り、恨み、愚痴、情欲のこころ、虚栄のこころ、増上慢のこころなどを作らないことである。

 これらの心は潜在意識に植え付けられ、成長しようとばかりそだっていくものなのである。

 一日の終わりにこれらのことがあったか、どうかあったならそれを認識し、そのこころがどうして起こったのかを観察し・・自分の心に問いかけその根を取り除くという反省をするのだ、そうすればまず心の動きをしることによってその原因は取り除かれるのである。

 要は間違いであったと知ったならば二度とその愚を繰り返さないことである。

・・・人の心は表面意識と潜在意識に分けられていてその割合は10%の表面意識と90%の潜在意識という具合になっている。運命を司るのは90%の潜在意識の中にありそこから表面意識に影響を与えているのであるから、よい運命を手に入れたいのであればその潜在意識の活用法を学ぶことが重要なのである。

 その中にある自分自身の「性格」が今日の運命を作っているといって過言ではないのである。

 
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2023年03月17日

定年という名の引退勧告

定年制に対しての意見
 いつまでも仕事をしていたいという意見は何も経済的な問題だけではないと思うのである。
仕事を始めた最初のころというのは誰もが「見習い」であるわけだから、当然少ない技量であり、所属する組織の上司や、お客様から教わりながら段々と成長していくのであります。
 ということは、誰かに迷惑をかけながら一歩一歩階段を上るように、

 成功と失敗を繰り返しながら進んでいくのである。

 年月を経て体験を積み重ね、数々の原因と結果のありようを自らのノウハウとし、様々な人脈を築き、そうして人々のお役に立てる自分を作り上げるのである。
 あわせて、自らが関わっている業界の特殊性独自性などの理解を深めながら、共通するなんらかの法則を発見するのである。その共通性を言い表している言葉「一芸に秀は万芸に・・・」といわれているように

 私の体験上この心境は50代後半くらいにならないと、理解できないかとも思うのである。さて問題は、これらの成熟した考えや全体をみる能力を身に着けたころに定年という名の「引退勧告」をうけるというのである。

 なんともったいないことと思うのである。

 もう仕事はしない、解放される、これからはゆっくり生きようと喜びのんびりと過ごそうと思う人もいる
 あるいは、仕事を生きがいとしていた人が虚脱感に陥り何らかの趣味を持とうと無理やり何かを始める人もいる
 生きがいを亡くし日々を無駄に送る人もいる

 しかし、本来人間というものは 誰かのお役に立っているという実感があってこそ自らの存在を肯定できるという本質をもっているものだと思う、確かに趣味もよかろう、しかしその趣味が他とのふれあいのない自分だけの世界観に浸るもの寂しさを味わっている人もいるのである。

 という事は、やはり趣味とはいえど他の役に立つという事を考えてみたいと思うのである。
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2023年03月07日

生老病死について

 凡ての生命体は循環という理屈の中に存在している。
生老病死というサイクルは何も人間だけではなくすべてのものにいえるものである。

 とりわけ人は自らそのメカニズムを知っているだけに「生老病死」についての考えをつい恣意的に見てしまうのである。

エネルギーの集中固体されたものが、物質と呼ばれるものであって私たちの肉体も例外ではないのだ。という事は

 私たちも物質と言う事なのであって、同時にエネルギーであるという事になる。

 そもそもエネルギーというものは滅することはなく、ただ形状が変化するだけである という事は人間の命も変化するだけでエネルギーとして存在し続けるという事になるのだ・・という事を般若心経で述べられている。

 色即是空、空即是色というくだり。これこそが私たちの宿命なのである。要するに今の私たちの意識、エネルギーは不変であるのだという事を2500年前のシャカは説いているのである。

 つまり色不異空、
 不生不滅は心、魂は永遠に意識をもって生き続けていくのだということである。


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2023年02月24日

豊かな人生を送るためには

 豊かな人生のためには豊かな教養を身に着けることが大切。これらの教養は無論インターネットにある雑多な情報の集合体ではなく、学校における机上の知識でもない、もちろん学歴とは関係ない。
 教養というものは、過去において体験してきた生活の現実対応型によるものでなければならない。
かつて、ニーチェは「本をめくることばかりしている学者はついには、ものを考える能力をついには喪失するのである。」と述べている。
  
 教養を支える知識は書斎から得るのではなく、現実の体験から得るべきであろう。知識は屍のごときものではなく生を吹き込まれた知識と情緒や、様式と一体となったものである。

 情緒とは、ほぼ先天的に備わっている喜怒哀楽ではなく、より高次元ともいえる後天的に得られるもの、人が生まれ育った環境や教育、思想信条、習慣、五官による感度によって培われるものである。こうした環境を生きてきた人が環境の中で何を思い何を考え、どうふるまったかによって異なるのではあるが、いずれにしても「美的感覚」「もののあはれを感じるこころ」などが知らず知らずのうちに培われていて、自らの人生に影響を及ぼしているという事を知らなければならないのである。

 日本人的な心とは、弱者に対する涙、卑怯を憎む心、正義感、勇気、忍耐、誠実さなどを根本的に身に着けている民族なのであるが、昨今の「グローバリズム化推進運動」・・・多様化という名のごまかし・・によってか日本の心を忘れてしまいそうである。

 さて、豊かな人生を送るために必要な事を列記する。もちろんひとそれぞれ異なっているだろうがその満足度はともかくも項目としては
@ 体の健康維持 A 物質経済の維持 B 良好な人間関係 C 文化・芸術などに対する造詣 D 心の健康(@〜Cまでの項目に対しての安定感が作る心構えの在り方) E 最後に死生観 といったことに関してどう考えをまとめているかによって
 人生が豊かであるか貧弱であるかが判断できるのではないかと考えるのである。IMG_0079.JPG

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2023年02月22日

人生とは何か・・・プロジェクトの連続

 人生について語ろうと思いながらもはてさて、どのように表現していけばいいのか悩むのであるが、原点に立ち返ってみたいと思うのである。
何らかの意思によって我々は日々を生きている。
 凡そ、それはプロジェクトとしての位置づけを持ちながら人生における「節目節目」を支配している。そんな気がしている。
 人が生きていくに必要な知識はまず学校生活という名の体験から吸収するもいまだ机上の空論にしか過ぎないとということが実社会に於いて様々な問題解決のヒントにはなるのであるが、この時点で知識習得の努力を怠っている場合は何かと支障をきたすという。物事にはやってみなければわからないことと、やってみなくてもわかるという事がある。
 物理学上の法則などは変えようがないのである。

先人たちの数々の仕事はこの物理の法則を活用していったもので、そういった基礎の知識をもとに自らの人生を切り開いていったものと思う。それは知っていたか知らなかったのかを問わずで、すべての現象にはその原則が当てはまるのである。

プロジェクトの定義を自分なりに説明すると下記項目を満足させることとししている。


1. プロジェクトの名称を決めることで目標を明確にすること・・・・達成する事 わくわくドキドキするような目標
2. その目標を達成する期限を決めること・・・人生を価値あるものにするためにはいつまでにという期限を設けなければならない
3. 段取り・・目標達成はどういった客観的な事象に到達するか、それらを入手するためにはどんな段取りが必要かを書き出す
  その段取りの優先順位を決めよ。達成するための階段を設置しそれを乗り越えるためには一体何が必要かをあらかじめ知っておかなければならない、我々の持っている資源、仲間の存在、協力者の存在など総動員でその階段を上るすべを見つけよう シナリオをつくるわけだ
4. 実行段階・・・考えと心構えと実際の行為が三位一体となっている事、これ重要
5. 迷子になっていないかチェック・・・シナリオどうりに物事が進んでいるかを定期的に確認し必要あれば方法を変えることに躊躇するな
  但し目標は変えてはいけない

 様々な人生行路の中に於いてはこんなプロジェクトをいくつも消化しなくてはいけないのであるから、常日頃より頭を整理しておくことが肝心である。
 私の場合はノート、手帳に記入したものを毎日見直しているのである。

 オリジナルなシステム思考支援手帳をつくるのが毎年の仕事となっているのだ。IMG_2922.JPGIMG_2923.JPG
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2023年02月09日

信用と金と

 「金で信用を作ろうと思うな、信用で金を作ろうと考えよ」この言葉は紀元前528年生まれ同462年没、ギリシャの政治家テミストクレスによるものだそうだ。
 今から約2500年前の話しだという事で驚いている。
 今も十分通用する話であり、ある意味当然なことである。私たちが仕事をするときはまずどんなことで人様の、社会のお役に立てることができるかという事から始まる。
 私自身大変つらい思いを経験している。

零細のシンクタンクに勤めていた時の事、もう数十年前の話しなのであるが、当時その会社のオーナーはバブル期における投資の失敗によって多額の借金を抱えていたようだ。ようだと推測気味に語っているのは、その時に私たち約10名の社員には聞かされていなかったためでもあるが、その全貌が明らかになったのは給料の遅配が再三訪れていたことから社員が気づき始めたのであった。

 仕事はあったにもかかわらず、である。
 通常の仕事の流れとしては、ある企業の新規事業進出企画なるものを受注したとして、入金は着手金として3分の1、中間報告時
3分の1、最終納品時に残金というのが私たちがクライアントにお願いする内容となっていたのである。

 であるが、何故給料遅配になっていたのだろうか、それはオーナーが先方に(クライアント)頼み込んで着手時に全体の3分の2の金額を前倒しで入金してもらっていて、その金額を借金の返済にあてていたのだ。もちろん最終の入金額も返済に充てられていて、私たちスタッフはほとんどがただ働きだったという事になるわけである。当然社員の不満は高まり一人二人と会社を去っていったのだ、その際に未払いの給与の借用書をもらっていたそうだが、なんともはや情けない話ではあった。

 私は、といえばやめればいいもののクライアントとの橋渡しを担当していたことと、自らの仕事の後始末もぜんぜんできていないし、実は私個人名指しの(指名されている状態)仕事は結構発生していたことも相まって沈む船に乗り続けていてとうとうオーナーとオーナーの親族と私だけのチームになってしまったのであった。当然借財返済には及ばず入金かそっくり返済に充てられる、私の貯蓄も底をつきいよいよと思いやめようと決意。
 そういう私にあろうことかオーナーから借金の申し込みがあったのであった。給料もらえず、仕事はしている、出張もあるいそがしい私、
もう無茶苦茶な話だ。

 バブル期の行動そのものはまさしく金さえあればという観点から不動産投資、証券などへの投資。そしてバブル破綻、信用を失っていく「金なら返せん」という状況に陥ったという話。
 私自身は、それまでの仕事ぶりを買われいくつかのクライアントが個人的に応援してくれることになり、なんとか独立の道を歩み始めることができたのだが、オーナーの代わりに借金した金額をオーナーに貸すというまことにへんちくりんなオチが付いた。貸した金など帰ってこないと覚悟の上であったのだ。それより勉強させていただいたのだと感謝の心をもち袂をわかったのである。

まず仕事の質を上げることを第一考え、そのための勉強を怠ることなく顧客満足に貢献する事こそが金を作るコツなんだという話。逆説




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2023年02月06日

中庸について

 孔子伝による中庸という概念をまとめると、その論理を解りやすく次のように述べていられる
「近きより遠きへ、低きより高きへ」

 君子の道はたとえば遠くに行くに必ず近きよりするがごとく、たとえば高きに登るには必ず低きよりするがごとし・・・ときわめてあたりまえのことなのだが子思の言葉(孔子先生の息子)はさらに次のように補足している。

 「身近なものより調和を図るようにせよ」
 「兄弟姉妹仲良くあれば父母の安心が生まれる」と・・・そののち 礼記 大学にて治国平天下 といった儒教に於いて最も実践的な思考規範となり男子一生の目的とされてきた

 詳しくは修身、斉家、治国、平天下として現代において必須の事柄である。

 理想を実現するには目標を現実的にとらえ、順序と方法が必要であるという事なのだ。

 ・・・さて出家したゴーダマは今で考えると生まれたばかりの子供(「ラフラ」と名付けられていたラフラとは当時のインドの言葉で障害物という意)と妻を置いていったのだから、父親失格でありましてや王の位まで捨てていくわけであるから、無責任極まりない行為であろう。
 もっともその当時のインドに於いての修行僧というのは最終的には出家という道を歩むことが半ば常識化されていたともいえるのである。
 しかしながら、小国であったとはいえ一国の主の座を捨て、妻子をないがしろにしたことは事実として後世に残されていった。

 ゴーダマの父、シュットダナー王はこっそりと部下に命じ5人のクシャトリアをゴーダマの身辺警護を含めた役割をもたせ彼のもとに派遣するのであった、出来ればゴーダマを説得し連れて帰ってきてほしいとの希望もあった。
 一方ではゴーダマの一度言い出したら聞かないという気性を思うとその希望もかなわないとも思うのであった。
身分制度は厳然として当時のインドを差配していてバラモンという神官とでもいうべき存在を頂点に武士として領土を守っていたクシャトリヤのトップである王様とその家来のカテゴリ、次に商工業者であるベッシャーという具合にわかれていて最下層にシュドラーという奴隷階級があった。このなかでの位置づけとしてのゴーダマはクシャトリヤという事になっていた。

 しかしながら王の子息ゆえにバラモン教への造詣は深く当時の経典であった「ベーダ」や「ウパニシャッド」といった宗教哲学書はよく学んでいたようだ。それゆえか、世の流れや風潮、風俗、それに戦争という事態が何故引き起こされているのかといった疑問を/持つことになった
又生老病死の原因、輪廻転生の意味などをいかに解明していけばいいのかと、常々その解答を得んと悩んでいたのである。
 生まれてきた以上は常に何かとの相対によって自己を認識するという事になっていてすでに第二第三といった夫人の存在もあっての若き29歳のゴーダマにとっての欲望には限度がなく、翻弄されながらも自分を失っていくことを感じていたのであった。

 それこそ人生そのものの原点というものをつかみたいという一心での出家ではあったのだ。
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2023年02月01日

多くの人が正しいと思っている事

 正しいと自らが思っている事が他の人にとっては全然正しくなく、どう話し合ってもその溝が埋まらないときに闘争という事態が起きる。
ということは、平和を破壊するという事になって、どちらが勝利しても正しいという事は強さだという事になってしまう。

 強さこそが正しいというのであれば今の世の中で最も正しいという国は米国なのであって、その他はその正しさもどきのありように追従することが正しいのだという事になる。これは防衛費の多寡を競っているわけで、そうなると世界で2番目に正しいのは中国という事になるのではないか。

 それってどうなの?

 正しいといって世界を平和にするために闘争しているのが現実、簡単に人が死ぬという事は正しいことなのか。
現実を見ているとそう捉えざるを得ない・・
もしそれが正しいのならば、笑いのある平和な世界は正しくないということになり、人類はとうの昔に滅びていなければならないであろう。

 戦が正しいのであればそれを止める努力は必要なくて、死者の報告は喜んで発表しているはずではないかと思う
一体、正しいとは何なのだろうかと多くの賢者は過去から現代まで悩んでいるのであろう。
 こうした悩みを持つ人々の前に一人の男が登場する。

 彼は、日夜自分の領土を侵されまいと必死で軍備を整え敵からの侵入を牽制し自国の平和維持のために国民を守ろうとした国王の長男であった。彼の悩みは同じ人間同士が何故殺しあわなければならないのかという事から真の生きる道とはなんなのか、生まれてきた以上はこの戦いは仕方がないことなのだろうか、人間の使命とは一体何だろうかと疑問を持ち続け、ついには後継者の地位を捨て出家して人間の価値を知ろうとするのである。

 ゴーダマシッタルダー その物語の始まりである。
 父の名はシュット・ダナー2500年前の中インドカビラという小国の王である。
 
 小国であるため近隣の国からいつ襲われ領民に難儀が襲ってこないかを常に恐れ、抑止力のための軍備を重視しなおかつ自らの民族「シャカ族」を守るために一生をかける心構えをもった人格者であったと記録してある。
 生母はマヤ、ゴーダマを出産後わずか1週間でこの世をさり、ゴーダマの面倒はマヤの妹であるパジャパティという方にゆだねられることになった。幼きゴーダマは生母の死などを知る由もなく、実際は叔母であるパジャパティに育てられるという事になったのである。

 幼きゴーダマは生まれつきなのか、利発であり物事の理解も早く、当時のバラモンの経典であった「ベーダ」「ウパニシャッド」といつた文献に親しみ、又 クシャトリヤとして必要な剣の技術も上達していった、まさしく次期王としての資格を身に着けていったのである。

 では、こうしたゴーダマが何故出家しなければならなかったのだろうか。

 
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