2014年03月13日

生きるという事

まぎれもなく、今日を生きている私たちにとって大切なことってなんでしょうか?
少なくとも生きていくために必要である食と住と衣服が備わっていないと生きていくことが出来ないのです・
少なくとも、私達も先達も子供たちも孫たちも同様に大切な事だと思うわけです。

今から数千年前に肉体をもって存在していたお釈迦さまとその弟子たちが遺して行った数々の教えは
今、有難い経文として現存しています。
しかし、当時の衣食住は修行僧としてあった彼らに布施として提供されていたわけでもともと現在の時代とは異なっているわけですし、有難い経文の隅々に亘って無条件に従っていってはならないのです。

南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もアーメンもただ唱えることが全く無意味であることを知らなければならないのです。
posted by 筆文字や隆庵 at 22:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月25日

さてと思う人生

先日、61歳の誕生日を迎えたのですが果たして自分の納得感が得られたのであろうか。
心のことば・・・
幸福者
       多くのものを持つ者と持たざる者
      そのどちらが幸せであろう、持つ者か
       それとも持たざる者であろうか、もしも多くを持つ者がそれを失うまいとし
      持たざる者が
       それを欲するとすれば  そのいずれも不幸である
      一日の食糧は数片のパンで十分だし
       居住の空間は数平方メートルで足りるからである
       物の多少に 幸、不幸があると考える人は、幸せにはなれない
      なぜなら、自分を含めてあらゆる物質はやがて大地や大気に還元され
      自分のもとから離れてしまうからだ
           幸せな人とは
        失うもののない人をいう

                              高橋信次 こころのことばより 抜粋
posted by 筆文字や隆庵 at 22:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月21日

仕事の話

 人が仕事を旨くやろうと思う時 何を参考にし、何を基準にしてそれを進めていこうとするのでしょうか。
先ず一番目に考えられるのが、経験主義、体験主義であります。
いわゆる業界や職種上における先達から踏襲され伝えられた技能や技術や、常識をもとに仕事を進めていくということです。
 先達から伝達された事柄だけでは、情報化 成熟化された現代において必ずしも正解ではなくなって締まっている事が多々あるわけです。つまり「昨日の専門家ではあるが、今日の、明日の専門家ではない」ということなのです。そこで今日の当事者である者たちは何を感じ何を学びそして何を為さなければならないのでしょうか。到底単なる体験主義だけではおぼつかないのです。
 したがって大手の企業では常なるイノベーションを図るべく「未来のための研究開発」に力を入れているのであります。新業態の開発や新商品の開発などが重要になっていくのです。
 とはいうものの、先達の技能、技術のすべてを否定するわけではなく根本原理に関しては多くを学ばなければならない事も一方では事実であります。老舗には老舗ならではの「ブランド力」があります。そうした歴史遺産そのものを生かしつつ「ビジネスモデル」を再構築していく努力もまた必要な要素なのです。
 さて、では「研究開発」などに多くの経営資源(人、もの、かね)を投入する余裕のない「小さなお店」は一体どうすればいいのでしょうか?
 それは、過去から学び、他人から学び、そして日々のお客から学ぶことです。書店にて出回っている専門誌の多くはどちらかといえば大企業、中企業 小企業向けのジャンル分類はされているものの「零細企業」向けの雑誌はわずかであり、且つ取材もあまり踏み込めてなく「小さなお店」の経営者にとって適当な記事が乏しいのが現状ではないでしょうか。
 私は、「筆文字・イラスト・キャッチコピー・ハッピーレター」などのデザイン制作をとうして20年間「小さなお店」での様々な出来事に遭遇し彼らのお店の「原因と結果」を知る立場を体験させていただきました。
近いうちに小冊子にまとめ電子版で公開したいと思っているわけです。
 仕事の原理原則はいかなる時代であろうと、その仕事の目的は他者のために何ができるかを常に考え行動するのだ。ということであり普遍的なものであろうと思っています。
 そういった日々を推し進めていくことで自らと自らの仕事の質を高めることができるのでしょう。

http://www.nagayama1997.com
posted by 筆文字や隆庵 at 14:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月23日

この世を構成してるもの

多くの人々は、仕事というものをどうとらえているのてあろうか。生活の基盤作りのため仕事をしていることを否定するものではないが、いまいちど考えてみよう何のために生きているのか、何のために仕事をするのか
自分の心に聞いてみよう。
お釈迦様の仕事についての教えは「八正道」の正しく仕事を為すという意である「正業」という言葉で表現されています。
その意図するところは、地上界のあらゆる生物は働くように仕組まれています。動物も植物も鉱物もこの地上の生きとし生けるものにその身を提供しています。そうして循環という法則にのっとって自らを生かしうる環境を創っているのです。
こうしてみてみると、私たちの職業の在り方も人々に必要なものを提供するということを意味するのです。
仕事をし、働くということは
自らの生活を維持し、なおかつ人々の生活を支えることです。したがって仕事そのものは「愛」の行為につながるのです。
愛は他を生かすことであり、助け合うということです。
現代社会の混乱は、仕事を単に金儲けの手段と考え、人はどうでも自分さえよければいいと思うのがその原因でしょう。
ですから、今日の多くの人が果たして正しく仕事をしているでしょうか、自分さえよければいいと思っているような気がします。経済が目的ではなく調和を目的とするならば争いと混乱の輪廻から離れ「愛」ある環境が実現していくでしょう。
経済の奴隷から脱しない限り、本当の意味の「繁盛」が訪れることはないでしょう。
posted by 筆文字や隆庵 at 10:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月01日

年頭にあたり



問題解決


今、目前に横たわっている問題という定義は、なさねばならぬことを成し遂げていないという現実の姿であり

ある意味矛盾という現象なのかもしれない。



しかし、目前の矛盾の後ろには、数多くの矛盾を抱えていて一体根源が何かを

隠そうとしている。



何故なら目前の矛盾はただの従属矛盾であり、その背景にある主要矛盾を解決しなくてはならない・・・・毛沢東「矛盾論」より



原因は表に現れているものだけではなく

現れの背景にある様々な思い、またそれらが社会や世界との関わり合いの中で複雑に絡み合っているからである。





問題解決の連続、これが人生という名の旅・・・

.
posted by 筆文字や隆庵 at 10:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月20日

我が信仰論

他力信仰とは自ら以外の何かの力が作用し、自らの目当てが達成するのだから自助努力の必要性が減少しただ周りの環境が自分を救ってくれるという信仰の事で在ります。仏教でいえば「阿弥陀浄土」に死んだあと生まれるということになっていて、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えることで浄土にいけるのであるという考え方。念仏を唱えましょうという教えであり、これはこれて゜日ごろの喧騒のなかにあわただしく生活している時間から心静かにする、落ち着くという面で効果がないとは言えない。また禅宗でいうところの「座禅」心を無にして座し、瞑想することで道は開けるという教えも同様な効果が上がると言えないでもない。ただ人間の心というものはそんな簡単なことでは真の満足が得られるとも思えないのです。まあ、念仏を唱えるということは外に向かっての行為であるのと座禅という内に向かっての瞑想という行為の違いはあるのです。
鎌倉時代、「日蓮」はそうした宗教活動を「念仏地獄、禅天魔」と戒め「法華経」こそが、自らを救い国をも救うのである。と唱え「妙法蓮華経」の教えの通りに生きよと伝導していったのですが、あまりに急激で熾烈な他宗批判を行ってきたため孤立してしまいます。不遇なめに何度もあいながらも都度復活していくそのエネルギーに関しては感服致します。
しかしながら、その潔癖ともいえる性格と当時の無学の民たちにとってある種「生き神様」になってしまい、多くの民たちの 私にはとてもまねできない、ただ「南無妙法蓮華経」と唱えることで「日蓮上人」に少しでも近付こう。という他力の考えに変わっていったのです。
いずれにしても、こういった他力の考えでは自らの運命を切り開くことなど出来るわけがないのです。もし、できたという人がいたらそれは純粋に実践が伴っていたからなのです。
posted by 筆文字や隆庵 at 12:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月12日

反省への意気込み

大いなる夢と希望を持ちこの世に生を受けた私たちは
長ずるにつれ、様々な出来事や様々な人達と交流しながら
生れきた家庭の環境や教育や思想、習慣のなかから、他と比較
する自分をつくり、優越感や劣等感のはざまにゆれたり
自分さえよければいいという欲を持ったりしながら、生活
していくのですが、本来「無一物」である自然の中の人間であるのに
ある時は、人を嫉み、怨み、怒り、愚痴を覚え今日の自分を
作り上げてしまったようです。

今こうして、存在している自らを振り返るとき、過去の過ちに
心が震えてきます。

調和を目的としているはずなのについつい、欲に目がくらみ、
悪しき習慣の中に身を置いて、常に物事を他人のせいにし自分の
心を偽って、ただ一日を過ぎていく。

そんな自分を自戒の念を持ち、今日一日を力強く生きよう・・・と
神仏に恥じることない人生、いやそれ以前に自分自身に恥じることなき
よう日々の思う事や行う事をメッシュにかけて反省し、
ある時は自分で自分をほめ「よくやった、それでこそ私だ」
ある時は自分で自分を叱り「何やってんだ、私らしくないぞ」と激励し

まわりのみんなとともに、「和気あいあい」と暮らしていこう。
posted by 筆文字や隆庵 at 21:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月09日

蒼天

私たちの心の在り方について考えてみよう、元々が黄金に光り輝いているはずの心をいつの日にか気がついてみると、人の中でもまれていきながらつけていった数多くの曇りがあるということを知り、その結果として不調和な環境の中に埋没してしまってるそんな自分がそこにいる。
でも、元々の心は、清く美しいものということを学び、清く美しい自分をとり戻そうと意識し行為しようと決断した時、わずかな光が雲の合間からのぞきます。もう一息というところにまた不調和な思いが<行為が出現、また雲ってしまう。

諦めることなく、学んだこと、調和への努力だけは惜しんではいけない。
なぜなら、いつでも雲の上は蒼天だから・・・
posted by 筆文字や隆庵 at 21:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月06日

魂の成り立ち

お釈迦様の転生に関して、宗教界ではもう二度とこの世に出られることはないとの解釈をされているが、そうではなくすべての人類と同じく「転生」されていることを私たちは知らなければならない、イエスもまた同様である。※ 心の発見 科学編より(高橋信次著)私たちの魂、生命は核となる本体1とその周りを円運動している惑星のような存在である分身5によって成り立っている。創造主である神が創られたその生命グループは永遠に変わらないのである。
さて、釈尊であったゴーダマシッダルターは次に分身「不空三蔵」としてこの世にあらわれている。次に中国に「天台智」として天台宗の根元になっており、さらに「伝教大師」として中国に学びに行く僧として平安時代を生きているのである。鎌倉時代には「空教」として肉体をもち、幕末の変動期に「木戸孝允」つまり長州藩桂小五郎として明治維新の立役者の一人となっている。
釈尊の弟子であったシャーリープトラー(舎利仏)もマハーモンガラナー(大目蓮)も幕末期には維新の立役者となっているという・・・転生の縁も波長共鳴の法則にのっとっている事を知らなければならないのである。
posted by 筆文字や隆庵 at 10:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月01日

仏教の変遷

仏教は、文字通り「仏の教え」のことであり、今からさかのぼること2500有余年ほど前に中インドにおいて当時「クシャトリア」武士の階級での一国の王子であった「ゴーダマシッダルター」といわれる方が、人生の無常を覚え、王の座をすて出家し36歳にて悟りを開いたのちに人々に「宇宙の真理」「人の生き方」などについて語られていったものを後世の人々が記憶し
一部分では記録し、現代に「経典」として残されているものを主体とした「教え」となっているものが「仏教」と呼んでいる概念であろうと推察出来ます。
今、多くの人々が触れている「仏典」なるものの大部分、のほとんどは漢字にて表現されており、プロの伝道師として僧侶という存在があるのでしょう、また宗教学者といわれている先生たちも同様の存在であります。
いわゆる、書かれていることの「翻訳」に終始し「ゴーダマブッダ」の教えとはかなりずれているのではないかと感じる次第です。
そこで、当ブログにて「般若心経」に関して述べてきたつもりです。
高橋信次師の著書「人間釈迦全4巻」のご拝読を多くの方たちへお勧めしたいと思います。
また、同師著「心の発見 科学編」では
 人の魂は永遠に輪廻を続けているということを述べられています。その中で「ゴーダマ・ブッダ」の転生について興味深い記述がありましたので、一部抜粋したいと思います。
ゴーダマシッダルターの生命はインドの地で昇天されたのち・・・・
posted by 筆文字や隆庵 at 15:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月29日

死後の世界について

1.戦争で死んだある兵士の話

一九六〇年十一月四日、ロンドンのあるアパートの薄暗い一室で、二人の男性と一人の女性が座って何かを待っていた(ウッズとフリント、グリーン女史である)。彼らは、ここ五年間、月曜日の午前中、いつもこうした集まり(交霊会)を持ってきた。彼らは、地上の誰もがまだ行ったことのない、しかし、すべての人が例外なく将来赴くことになる、死後の世界からの“メッセージ”を待っていたのである。

交霊会の沈黙は、ロンドン訛りのあるしわがれ声によって突然破られた。テープレコーダーのスイッチが入れられた。その声は四十六年前、第一次世界大戦中に死んだ兵士からのものだった。彼はフランダース戦場の塹壕(ざんごう)内における苦しい体験を語り始めた。

「私はごく普通の人間にすぎませんから、私が今から話すことは、多くの人々にとってあまり役に立たないかもしれません」

「あなたのお名前は?」とグリーン女史が尋ねた。

「私はたいした人間ではありません。私の名前はプリチェット、……アルフ・プリチェットと言います」


戦場での死

(プリチェットと名乗る霊は語り始めた)

それは一九一七年〜一九一八年にかけてのことだったと思います。何しろかなり昔のことですから、正確にいつのことだったか、あまり自信がありません。私たちは終日、激しい敵軍の砲撃にさらされていました。そのとき私は、「もしこんな中で死なずにすむなら、本当に運がいい」と思いました。次の日、朝早く、私たちに塹壕から突撃する命令が下りました。

その後、私はたしかに塹壕から飛び出して敵軍に突撃したことを覚えています。(*プリチェット本人は自覚していないが、この直後、彼は戦死したのである――訳者)

私はどんどん前方に走って行きました。そのとき数人のドイツ兵が、私の方に向かってきました。ところが彼らは、私の所をまっすぐ素通りして行ってしまったのです。まるで私が見えなかったかのようでした。彼らは私を攻撃するでもなく、私に関心を示すでもなく、私の所を勢いよく通り過ぎて行ってしまいました。

私は「はてな、これはいったいどうしたことだ?」と思いました。私はそのまま前進しました。どんどん走って行ったことを覚えています。「もし彼らが私に気がつかないなら、私は何も彼らのことを心配する必要はない。どこか小さな穴に飛び込もう。そしてしばらくしてからそこを出て行こう」と思いました。私はそのとき、心の中で願っていたような爆弾でできた穴を見つけ飛び込みました。そしてその中にうずくまり、「この恐ろしい状況が通り過ぎるのを待とう。一番いいのは捕虜になることだ」などと考えていました。

「彼らが私に気づかなかったなんて不思議なことだ。本当は私に気づいていたに違いない。しかし彼らは、まっすぐ通り過ぎて行ってしまった。なぜだろう?」

――私はいろいろ考えましたが、どうしても理解できませんでした。


死んだはずの友人との出会い

それからどのくらい、そこにいたのか分かりません。とにかく私は眠ってしまいました。次に、目の前にまぶしいほどの明るい光を見たことを覚えています。私には何が何だか分かりませんでした。それは今まで私が一度も見たことのないような光で、辺り一面を同時に照らしていました。その光はあまりにもまばゆく、私はしばらく目を閉じていなければなりませんでした。

「これは何かの発光装置だ」と思い、少々怖くなりました。

すると突然、それが形をとり始め、やがて光明満ちあふれる人間の姿になっていきました。私は本当にびっくりしました。それは私のよく知っている友人の「スマート・ビリー」でした。その彼が今、私の目の前にいて私を見つめているのです。

しばらくして私は、自分が起き上がっているような感じがしました。奇妙なことに、本当に自分自身が起き上がっていることに気がつきました。私は、それまで終日ここで横たわっていたに違いないと思いました。堅さとか不快感・不便さを感じて当然なのに、そのときはそうした感じが全くありませんでした。それどころか、鳥の羽毛のような軽やかさを感じました。

私は「何かが私の頭を混乱させている。たぶん私は頭がおかしくなってしまったのだ!」と思いました。

私は磁石のように彼の方に引き寄せられました。彼が生命力に満ちあふれているのが分かりました。彼の顔は素晴らしい色彩に輝いていました。彼に近づいたとき、「そういえば彼は死んでいたんだ」ということを思い出しました。最初に彼を見たとき、彼がすでに数カ月前に死んでいたことに気がつくべきでした。しかしそのときは、彼が死んだ人間だとは思えませんでした。

私は彼の方に引き寄せられました。彼は私に笑いかけました。そして私も彼に笑い返しただろうと思います。彼は私に手を差し伸べました。当然、彼と握手をするのだということは分かりましたが、少々馬鹿げた感じがしました。何しろ戦場にいる私が、すでに死んでいる人間と握手をするのですから……。冷や汗が吹き出すようでした。

「いったい何が起きたのか? 自分は夢を見ているに違いない」しかし確かに私は、彼が話す言葉を聞いています。そのうち彼が「大丈夫、何も心配いりません」と言いました。「これは全く馬鹿げたことだ。何かが間違っている」――とにかく私は彼の手を握りました。すると突然、体が宙に浮かぶような感じがしました。今、自分がどこにいるのか分からないのに、彼の手を握ったまま空中に持ち上げられました。私は何年か前に見たピーターパンの映画を思い出しました。「これは実に面白い夢だ!」

私の足は地面から離れました。それは空中に浮かんでいた、としか表現のしようがありません。徐々に高く上がって行くにつれ、まわりのすべてのものが遠のいて行きました。はるか下の方に戦場が見えました。銃や爆発の閃光も見えました。明らかに戦争はまだ続いています。「これは本当に特別な夢だ!」

次に大きな町のような所へ近づいて行ったことを覚えています。そこは光り輝いていました。そのときの情景は、私にはこのようにしか表現できません。そこの建物はまわりに光を放っていました。そのうち突然、足が地面に着いたような感じがしました。不思議なことに、地面は堅く感じました。それから長い並木道のような所を歩いたことを覚えています。その道の両側には美しい木々が立ち並び、その木と木の間には彫像のようなものが置かれていました。

そして歩道を、見慣れない衣服を着た人々が行き来していました。彼らはよく絵画などで見るローマやギリシア時代の人々のようでした。柱のある美しい建物があり、そこに続くみごとな階段が見えました。大部分の家々の屋根は平らでした。これまでイギリスでこんな平らな屋根の建物は見たことがありません。この建物は大陸様式だろうと思いました。それらの建物からは光が放たれ、そこにはいろいろな国の人々がいました。ビリーが、

「もちろん君は自分の身に起きたことが分かっていますね」と言いました。

「私の身に起きたこと? 今、私が知っていることは、ここは楽しい所だということだけです。素晴らしい夢を見ているということだけです。目が覚めて元に戻るのは残念です」

「心配には及びません。目が覚めることはありません」

「それはどういう意味ですか。目が覚めないとは?」

「あなたは死んだのです」と彼は言いました。

「バカなことを言わないでください。どうしてこの私が死んでいるのですか。私はここにいるじゃないですか。私にはまわりのものが全部見えています。……しかし私はあなたが数カ月前に死んだことも覚えています。私には何がなんだか分かりません。私はきっと夢を見ているのです」

「いいえ、あなたは夢を見ているのではありません。本当にあなたは死んだのです」

「まさか! どうして私が死んでいるのですか。ここに私がいないとでも言うのですか」

「あなたは、たしかにここにいます。しかしあなたは本当に死んだのです」

「じゃあ、ここは天国ではないということですね」

「正確には天国ではありません。しかし天国の一部です」

私は心の中で“天国の一部”とはどういう意味なのだろうか? と考えました。
posted by 筆文字や隆庵 at 11:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死後の世界

人類の無知によるいたずらな恐怖という感情、その最たるものとしてすべての生物の死という現象の訪れに関して、様々な啓示が為されてきた歴史がある。1900年代の「交霊会」に現れてきた「シルバーパーチ」という霊によるものは多くの書籍として今日本でも販売されている。
彼の説く世界こそ、私たちが知っておくべき最低限の知識であることを伝えたい。「シルバーパーチ霊言集」より抜粋・・・
第一章 神の計画
(一)私達が地上に降りてきたのは、人々に霊的生命の秘儀を伝えるためである。この真理が地上に広がれば、戦争や革命にもまして、一大変革が地上に起こることになる。それは魂の変革である。
 その時、初めて世界から鎖が消える、今まで人々を縛りつけていた足枷が。
(ニ)私たちは一片の信条、一冊の経典、1宗一派にこだわるるものではない。ただ生命である神、その永遠の法、これに命をささげるものである。
(三)霊的な大きな力が、今地上世界に向かって降りていく。地上のあらゆる国々で、次第にこの力が感得されていく、今地上では大事業が進展している。それは地上の利己と無知を打破しようとする運動である。やがて時来れば、この事業は必ず達成される。だがその前に、必ず大きな産みの苦しみがある。
            
posted by 筆文字や隆庵 at 10:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月22日

多くの病めるもの

信仰の奇跡(スターデリー)著
現代の教会の誠にまじめな会員の多くは、自分は神を信じていると信じているのである。
しかし、自分の息子や娘の非行的な姿に直面するとき彼らは、恐怖、心配、不安の誘惑に屈してしまうのである。
 
その時彼らは、「恐怖、心配、不安、悪を信仰している事になるのです。
イエスはいう「信仰うすき者よ」・・・世の多くの人は真に神を信ずる者は、人をもまた信ずる」という教えを
体験によって学んでいかなければならないからである。
恐怖、不安、心配というものに自らの意識のバイブレーションを同期させるな、そりは現実をつくるからである。
愛、優しさ、楽しい期待に同期させよ・・・
 
 
 
 
posted by 筆文字や隆庵 at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月20日

正しく生きる

自分の運命を不幸にする生き方に関して・・・怒り、愚痴、優柔不断、独善、強欲、中傷、嫉み、粗野、多弁、排他、増長慢、引っ込み思案、出しゃばり、怠惰、憎しみ、虚栄、誤った優越感、劣等感、人を見下す、いつも悲観的に物事を考える、人にケチをつける、人が失敗すればいい気味だと思う事など、こうした性格は、自分を不幸にするのである。こうした生き方の根本は潜在意識の中に巣くっているわけだから幸福になろうとする自分を邪魔するのである。
幸福になろうと思ったら、いつも明るい、素直な、朗らかな、人の幸せを自分のことのように喜べる、情け深い、やさしい、助け合っていく、調和した性格を持たなければならない。
我々の性格は、生まれつきのものもあるけれど、生れてからその環境や教育、習慣などによってつくられたものであるから、なぜこんな性格が生じたのか思い出して反省することが、大切なのである。
そうして、一つ一つの欠点を修正していくことで心が明るくなり、広く大きくなり「やれた」「やった」という魂の底から充実感を感じて心が安らかになるのである。すると、周囲も自然に明るくなるのです。これをカルマの修正という。
posted by 筆文字や隆庵 at 14:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月16日

存在

ただ、そこにある命、そこには愛しても愛しきれないほどの
いとおしい存在がある。
森羅万象ことごとくが生命の営みを送っている
今は、「秋」春に播いた種が暑い夏を越え、今こうして実を結び
多くの恵みを与えてくれている
やがて冬の季節を迎え、大地にその命をささげ再び春をまつ
人もまた、森羅万象の一部分としての命を輝かせている
今もなお永遠の命をもち、人生というこの世の旅人であり
魂の旅を続けていく。すべての生命は
何らかの使命をもち、こうした日々をおくる。
循環という天の計らいは時として厳しく、時として楽しくまた多くの悲しみ
を体験させてくれる
・・・・だからこそ今の一瞬一瞬を大切にしていこう・・・・
 
多くの体験から学ぶことが私たちの使命であるとおもうから・・・
その中から原因結果の法則の存在を知ることができるから・・・・
posted by 筆文字や隆庵 at 11:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする