2022年05月17日

宇宙そのものである心

 私たちの心は宇宙そのものでありそれこそが創造主である「神」ともいうべき存在から分かれたものであるといえます。
では、心とは一体何でしょうか

 大きくは次のように機能分化されています。1.本能 2.感情 3.知性 4.理性 とそれらを統合している想念帯というべきいわば記憶庫という領域であり過去世の記憶も潜在している場所であります。
 また前述の4っの機能 本能 感情 知性 理性も表面意識と潜在意識とがあり無限の世界観は大自然の仕組みが理解されており神の恵みを受けている世界を作っているのです。

本能の表面意識は、欲望につながりがちであり所謂 地位 名誉 財 愛欲 エゴ 逃避 拒否 闘争 建設 破壊 戦争(男) 平和(性の混乱)などの両極端に分かれる。本能の潜在意識は「建設と調和」に収れんされていくのでありますが、一時本能として食と性を軸に二次本能へと展開していき前述した地位 名誉 財産という風になっていきます。
 
とはいえ、本能があるからこそ肉体の維持ができ子孫を残すことができるものであり男女の調和は幸福の基礎でもあります。

感情というものは行動の源泉であり理屈はわかっていても、感情が肯定しないと人は行動に出ることは少ないのです。
人間の行動の7〜8割は感情の働きともいえる。
 感情の表面意識は「喜怒哀楽」怒り、喜び、哀しみ、愚痴、嫉妬、そねみ、ねたみ、恨み、中傷、恐怖 など自己中心的行動。
感情の潜在意識は愛そのものであり、感動や感激 感謝 豊かな情操・調和、他を生かす愛が働くためこうした感情が働くのであります。喜怒哀楽もあるが、自己本位ではない

 豊かな感情想念は利害を離れて明るい社会をつくる源でもあるわけです、感情のない世界を想像するとそこにあるのは暗黒世界であります。


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2022年05月16日

神の子としての行動規範

 大宇宙の中の太陽系という豆粒みたいに小さい存在である地球のそれ又極小の存在、人間が大宇宙の一部分として今こうして生きているわけなんです。
 しかしその極小な存在である私たちがなぜ大宇宙の広さを実感できるのでしょうか、どんなに精巧なレンズを通しても肉眼で見る宇宙の広大さは認識できないのです。
 なぜか、それは私たちの心そのものが宇宙大の大きさを持っているからなのです。その神の子としての私たちが、それでは何を物差しに生きていく規範を定めるのでしょうか

 ここでは、その徳目に関して考えてみたいと思います。
第一の徳目・・・友愛(愛と慈悲)、救助、協調、今日胴、忍耐、正直 などなどどれがかけてもダメなんですが、これらの心を持ちそれを実践すること。つまり、神性といわれるあらゆる善徳を実践するという事になるのです。

第二は・・・・・我々の生活をできるだけ優雅に親切に、調和を保って日々が明るく朗らかになれるよう努力をし完全に生き抜くことによって成就するものであります

第三には・・・あらゆる立場をこころよく迎えて謀反心を起こさず、我慢強く就中理解ある心を持つことによるものであること
こうした理解ある心は 凡その環境とあらゆる試みとして異義を認め、そこに魂の向上の機会を発見しようとする心構えでいることなどです

 目の前に現れている環境、現象や事件は私にとってまた、私の周囲の人々にとってどういう意味があるのか、これは私が何かを学び取り それによってさらに一層自分を「神理」に近づけるための出来事であるか、そうしたときに私は心的に何を思った誠意か、また肉体的に何をしたらよいのかについて考慮しなければならないのであって

 これらの事件を「宇宙的原理の秤」で測っているか、それとも「我欲」という有限の秤、すなわち単なる幻想で結局は心の損害になるような一時的便法の秤で測っているかどうか、その動機の在り方に心を寄せるべきことであります。

 こうした事態を体験しいかに解決していくかということで、自ら進んで錯誤と幻覚の世界に三輪いれ体験を通してその結果
比較対照によって、ついに私たちは完全なる「神理」をはっきりと自覚するようになるのであります。
 

(注) これらの文章は「天と地を結ぶ電話」より抜粋したものであります

 我々は誤りを犯す自由とその誤りから何かを学ぶ自由があるという事を何度も何度も認識しなくてはなりません
 日々、私たちはこうすればよかったとかこうしたから解決したとかの事例はたくさん持っているものです
 小さな悟りはいずれ大きな生命の悟りにつながるのです。





posted by 筆文字や隆庵 at 16:12| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神の子である

 この大宇宙を創造した神の意識は、創造の最後に自らの意識を分け与えるものとして人間を
まず実在界というあの世にエーテル状態の肉体を形づくられ  その中にポンと、神の意識を持った魂を配置された
その他の動物、植物も同じようにまず実在界に姿を現し、次いで地上界に物質化されていくのであり、忽然と大地に現れたのであります。

 元をただせばこの大宇宙の中に存在している私たちは紛れもなく神の子であって、どうあがいてもその立場から離れることはできないのであります。しかもその生命の目的は「調和の実現」という「神の意思」から逃れることのできない「宿命」を背負っているといえます。
したがって目的である「調和」に反する思いや行為には必ず相当の「反作用」があり、本来の姿に立ち戻るようにと反省を促す出来事が起きるわけであります。

 問題は真の世界であるあの世ともいうべき振動の精妙な世界から最も粗い振動数を持つ地上界に降り立った人類は、自らの持つ意識を働かせる割合が10%未満になってしまうため、盲目同然の人生を歩まなければならない事態になっていることによる「大いなる誤解」をもって日々の暮らしを余儀なくされているという実態であります。要するに「間違いを犯しやすい」状態が常に私たちの周りにまとわりついているということなのです。

 過去、多くの詩人や哲学者 はたまた宗教家によって「人生は苦なり」といって人生は苦闘の連続であってこれこそが人間なのだものという事を書き残していたり、文学や戯曲などにその「苦闘」に対する人のあがきを題材にしている物語となっていることを私たちはよく知っています。

 しかし、過去の偉人、所謂仏陀や、イエスはそんなことは言っていないのです、彼らは実在界あの世こそが真の世界でありこの地上物質の世界は仮の世界であり、本来人は善そのものであり神の子であるという事を教えるためにこの世に何度も生をもった「光の大指導霊」であります。
 ものにおぼれ、情欲におぼれ人としての在り方を忘れがちな私たちが自ら神の子として自覚しその事実を思い出すことを手助けしてくれているのです。

 曰く「苦とは私たちが神の創造した法則に外れた思念と行為の結果として訪れてくるものて゛ありそもそもが苦を作り出しているのが私たち自身であって苦の世界があらかじめ用意されているという事などないのです

 今から凡そ7000年ほど前にこの世に生を持ちエジプトの宗教的指導者であったとされる「アガシャー」という霊人は次のように述べていられる。
 我々は自己も他人をも罪ありとしては認めてはならないのです。我々は我々自身から学び、又他人から学ばなければならないのです。
本来は善と悪という二元性ではなく悪というものは存在していなくて、悪と見えるものは神性的な自分の心普遍的な生命活動の表現ができていないという極めて消極的な状態のことを指すのである。
「善一元論」というのであります

 苦痛は我々が法則に外れていることを示してくれ未習熟の課題があることを示してくれる合図であり正しい調和のある考え方に導いてくれる刺激であると理解し苦痛をのがれるにはどうしたらいいかを学ぶ題材を供してくれているという事に感謝しなければならないのです。
 という事は我々には誤りを犯す自由もその誤りから何かを学ぶ自由もあるわけですから、その誤りを熟考し他から強制されることなく自己訓練を完成するという自由を持たなければならないのです。

 自由といっても我々が属している集団の因果による苦痛の場合はその自由も制限されるのであります。

しかしながらその集団の苦痛はといってもそれすらもいずれかの過去の思念と行為の結果としてあるという事も忘れてはならないことでしょう
 永遠の魂の旅を続けている私たちにとって原因と結果の輪廻が続くわけでありますから、きょう一日を正しくいきたいと思います。

そのための「徳目」についてまた次回書きます
posted by 筆文字や隆庵 at 10:28| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月13日

貴重な人生

 凡ての人には、生まれてきた意味というものがあります。それは例外なくです。
凡ての人にはなさねばならない使命があります。

 何度も生まれ、何度も死にそして今があり、それぞれの人生にてなしたことなしえなかったこと
それらの功績や、失敗やすべてのドラマが刻み込まれている魂なるもの それが私たちなのです。

 現在地上世界に於いては戦争や飢餓、天変地異、パンデミックなど私たちに警告を与えているような出来事が次から次へと起きています。
その中で私たちは一体どう生きていけばいいのでしょうか、
 調和のとれた世界を建設していくのが人類に課された共通の目的のはずなのにそのことを忘れ、常に「闘争と破壊」といったサイクル(循環の法則)の中に巻き込まれ、その中で混乱しているというのが現代の世相といえるでしょう

 その原因は私たち人間が持つ自己保存という、自分さえよければ云々といった勝手な思考から生じる「私利私欲」という心の動きが顕現された世界だということなのでしょう、一個人の人生模様も同じく私利私欲といった思考から様々な問題を派生させ様々な現象を体験するということになっています。
 2500年前のインドのお釈迦様はこのことを「善因善果」「悪因悪果」と言われてますし2000年前のイエスは「蒔いた種が生える」と言ってます。つまりは原因結果、作用反作用という法則に関して述べられているのです。

 限られた物資を独り占めにしようとばかりに奪おうとしたときに起きる闘争の思いは破壊という結果を招き、さらにその破壊という現象から新たな闘争を生み出していくわけであります。

 自分さえよければどんな手を使っても構わないのだという思考はいずれ循環していき自らの破壊につながるのであることを世界の歴史は教えてくれています。ある原因となる行為をどこかで修正しなくてはならないというのが真理なのであるということを知りましょう。反省という機会があるということを知りましょう
 これこそ神の慈悲だということです。

だから、特にリーダーという存在の重要性が問題となっていきます。リーダーの思考や行動などによって多くの人々にある影響を与えていくわけですから、徳のあるリーダーでなければならないのです。国家としてのリーダーたちの体たらくは目に余るものがあります、まさしく私利私欲、党利党略、に終始しているさまはみっともないだけではなく彼らに対しての同情心さえ覚えるわけです。

 永遠の命である私たちのわずか100年未満の出来事でしかないこの地上界でのふるまい、物質至上主義の愚かさを知りましょう。
posted by 筆文字や隆庵 at 09:33| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月30日

ゴーダマの出家

 父である王の思惑を裏切った形で、ゴーダマは出家の道を選びました。当時のインドは戦国時代のごとき有様で、国内のそこかしこは戦が続いていたわけであり、いかに生きるべきか、死とは一体何か、生まれてきた以上「死」は避けられない。ならば何故人は生まれてきたのであろうか・・・など人としての根本に対して大いなる疑問を感じていました。
 ゴーダマ達の民族「シャカ族」は中インドに於いての小国であり、いつなんどき他国に侵略されてもおかしくない環境にあったわけで、そのために近隣の「マガダ国」という大国と同盟を結び(安全保障条約のようなもの)抑止力として互いに武力の充実を図っていました。
そうした中に於いて、勇ましいクシャトリヤの部下たちは王子であったゴーダマを守護していたのです。
 人が人を殺め、領土の拡大や攻撃に対して当たり前のように人命を軽んじている、そんな生活は果たして正しいのであろうか。と悩みます

 一方で身分上最上位に位置している「バラモン種」という祭祀の教えとはこの世の苦しみに耐え荒行に身を任せ一身に来世を祈れば天国に行けるのであるといった教えが主流になっていて、あちこちで修行者が燃え盛る火のそばで熱さに耐えながら瞑想し、またある者は呪文をとなえながらバラのとげの上で座禅を組んでいる。この世の苦しみに耐えることで天上界にて良い生活をするためといっているが、今自分にとって大事なのは今生の世界ではないかと彼らの行為のむなしさを思うゴーダマであったのです。

 春夏秋冬にそれぞれの館を王より与えられ、数人の女性からの寵愛を受け何不自由なく暮らし将来の王の地位も約束されていたゴーダマにとっての苦悩とはどういうものであったか、また妻との間に生まれた子供まで捨てなぜ出家の道を選んだのであろうか・・

 といった一連の話は高橋信次著「人間釈迦」第一巻を一読いただけれはよくわかると思います

posted by 筆文字や隆庵 at 09:28| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月29日

目標(もくひょう)達成(たっせい)のための心構え(こころがまえ)


 日々の課題解決のためにはどんな心構えが必要でしょうか、いや心構えといった形而上のことではなく具体的な行為を伴った形而下の話でありましょう。それは言葉としては○○をするのだ。又は○○しなければならない、もしくは○○させられるのだ といった動詞で表現されるべきことの連続体から構成されているのが私たちの日々の人生であります。
 これにまつわる現実の流れこそが人生のだいご味でありまた学習課題の発見という事業
充実させていくものであります。
 これらのことを踏まえて私は、こう考えます。ある時に設定した目標に対して今どうなっているのか、どこまで達成しているのか、といったことを検証する時間を取ります。
 毎日なのか、毎週なのか、毎月、毎年なのかその時期はあらかじめ設定した目標の内容によって異なるのですが、それぞれある課題は終了したのか、途中経過なのか、達成したのかという観点から思慮するのです。
 具体的には、各目標ごとに今の自分はどこにいるのか、どこに行こうとしているのかの確認作業をしていくということになるのです。
過去1週間に起きたこと、これから1週間に起きてほしいことなどをまとめておく、紙に書くといった作業が発生しますが、できるだけ他人が読んでもわかるように書くことでより正確に自分を把握することができるのです。
posted by 筆文字や隆庵 at 08:49| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月25日

豊か(ゆたか)な人生(じんせい)の構築(こうちく)ついて


人生を豊かなものにするためには、明確な目標設定が必要であります。
という話は大昔から言われていることであって、誰でもが本来望んでいることだと思うわけです。

これらの観点から古今東西多くの宗教者や哲学者などによってさまざまな回答らしき言葉が残され、また一部は継承されています。
多くの書物があらわしている数々の教え、教訓は今日まで人類史における貴重な財産として人々のこころのなかに記されているように、知らず知らずのうちに価値観として様々な世界の判断基準になっています。

こうした価値観、各人の独自の考え、宗教観や人生観、はたまた環境や習慣などは、大きく人生模様の色付けに影響を与えていきます。
要するに明確な目標とは各人のこうした様々な価値観の支配下におかれているともいえるのですが、ここでは価値観の有無というよりメカニズムとしての「目標設定」と「行為計画」に関して論を進めていきたいと思います。
人は本来目標をもって生きています。例外なくです。そのことを自覚しているかいないかなのです。
具体的に言えば、腹が減ったら何か食べたい、よし食べようという目標を設定しているはずです。寝たいときには寝ようという目標を立てているのと同じです。
勉強でも仕事でも遊びでもすべてはこの目標設定から始まっていることをまず認識しなければならないのです。
これらは人間の本能ではありますが、誕生したばかりの赤ん坊の動きから見ても生存に必要な目標はメカニズムとして備わっていることだけは理解できるでしょう
だから、目標設定する流れとしてはこのようになっています
1. 豊かな人生(と思っている生き方)の構築のための目標設定・・・いろいろな目的がある人たちにとっての達成しなければならない目標とは何かをまずつかむことが第一の前提となります

2. 目標達成のためにはどんなことを充足させなければならないかを考えます。

3. その充足させなければならない項目をリストアップしていきます、目標の分解作業です。
それぞれの獲得手段は何か、そのために何が必要かを細分化していきます。

4 必要な行動や、環境整備ができているか、協力者の要請など必要なことを思いつくままリストアップしていくといった作業が必要ですが、すでに手に入れているものあります。また訓練が必要であったり、経済的な面や体力の面、環境の面なども考慮することが必要な場合もあります
5 スケジュール化、各々の項目に対して時間の制約を設けます。いつまでに達成するかを課題毎に設定していきますが、同時進行が可能なものとあることを達成しないとできないという性質のものもありますから、優先順位を決めて実行しなければならないでしょう
6 スケジュール化できたら後は進捗状況に関しての分析です。日々の行動についてのチェックリストなどによる確認作業となります。ガントチャートなどあれば便利です。

あらかた以上のような手順で進んでいきます。大変だと思う人は、これとそっくりな手順で日々を送っているように思っていても紙に書かれた設計図がないために、少しずつずれていきます。
そのずれは時間の経過とともに大きく自らの人生旅の迷い道にはまり込んで迷子になっていくというのが多くの事例で明らかです。
目標をもっての日々の暮らしは時として苦悩であり、過酷なこともあるものの目標を見失うことがなければ必ず充実した人生となるのです。

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2022年04月22日

昨日から続く宗教論

  2500前のインドの状況というのは。今も存在している差別意識でした 身分というものが明確に分かれており最上に「バラモン」という祭事を執り行う一族があり直接神に仕えるといった立ち位置である。次に「クシャトリヤ」という武士の一族、王の存在は国というか部族というものを守るために各土地土地に存在していたが、日本の戦国時代のように当然大国、小国の差もあり侵略戦争も日常茶飯事だったのです。
 その武家社会において戦いに明け暮れていた者たちを率いていた中インドの小国の王様が、ゴーダマシッダルターの父「シュットダナー王」といわれる方でした。
 さらに一段階下の身分に商工業者がいます。経済活動の主役といってもいいでしょう、彼らを「ベッシャー」とよび様々な物資を市場に供給する仕事をしていたわけですね。そして最下級の身分として「シュドラー」という奴隷階級があり(カースト制は今も存在している)まるで人間扱いされていなかったようです。

 こうした差別がはびこる世界に対して矛盾を感じていくゴーダマ。
また、ゴーダマ自身も実の母親である「マヤ夫人」自分を生んでくれた後わずか一週間で死んでしまいます。このことの事実は生長していき10歳のころに知ることになるのですが、あらためて考えるのになぜ母は早くに死んでしまったのか、そもそも「死」とは何か、と人の道の前にはだかる苦しみはなぜ存在しているのかと大きな悩みを抱えながら、青年となっていくわけです。
 
跡継ぎにと期待していたシュットダナー王は、こうした長男のゴーダマの様子を見るにつけ不安が募ってきます。そこで、嫁をとるよう手配し、また2号3号という具合に女性たちをゴーダマにあてがいます。四季それぞれの館と女性によって何とかゴーダマを手元に置けるよう様々な策を講じるのですが、当のゴーダマはそうした生活に一時は埋没するのですが、根本的な問題に対しての疑問「生老病死」という現象に対して何ら解決策を見いだせず、いわゆる欝の状態にまで自らを追い込んでいくのです。

 この当時人々に浸透していた考え方として「ヴェーダ」「ウパニシャッド哲学」というものがあり、ゴーダマも当然バラモンの教えとして勉強はしていたものの、その内容として今世の苦悩はあの世に楽をするためだということで、苦行を続けることが死後の安楽を約束するという風にバラモンは教えていたようで、そのためにインド各地に於いてヨガ瞑想であるとか、肉体を苦しめることによる我慢の極致が悟りとまで言われていました。
 その教えの根本が間違っているとは思うものの、どこがどう間違っているか納得いかず悶々と日々を費やしていきます。 
妻ヤショダラとの間に
 子供が生まれます。ゴーダマは「ラフラ」(障害物の意)と名付け、そうしていよいよ29歳の時に城をでて「出家」の道を選んでしまうのです。

  このようにゴーダマシッダルターは、人間の持つ根本的な悩みについてその解答を得るためについに家出をし徹底的に自分を見つめるのであったのです。

   世に出ている「釈迦伝」を参考にまとめてみました。

  この先どうなっていくかについては適宜書いていきたいと思います



posted by 筆文字や隆庵 at 16:13| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月20日

正しいということを宗教に求められるか

 そもそも信仰していない人はいない、なぜなら信じていることが、ものが、人があるからこそ日々生きていけるのが真実だからと思うわけです。
例えば、一夜が明ければ朝はやってくるということであったり食べるものには毒は入っていないと信じているから食べることができるのであったり、信号が赤だったら車や人は止まるものと信じているからこそ日々暮らしていける、信じているのです。
 たまに、信じていないという人がいますが、そういう人でも「信じていない」ということを信じているということになるのです。レトリック的言い回しかもしれませんが
信仰とはそういうものです。

 世には非常識な信仰もあり、物質充足こそが最大の目的としそのことを信じているという信仰もあり、自分だけが裕福でありたいという信仰もあるわけで、もう何が何やら真実が一体どこにあるのかが混とんとしているのが現代社会ではないでしょうか、この混とんとした社会を改善しようとばかり古今東西数多くの哲学者や宗教指導者によって研究され人としてのあるべき形や、社会とのかかわり方などを論じてきたという記録が、古文書や伝え書き、伝聞としてであっても 世界各地に点在しているのが人類の混迷の証左でありましょう。
 現代の日本はといえば、仏教系、キリスト教系の宗教団体なるものが何百と存在しているのですが、何百何千とある宗教法人の存在こそが逆にそれらの宗教が正しくないということであると思うわけです。

 いうまでもなく仏教という「仏の教え」はおおよそ2500年ほど前の古代インドに於いて、当時クシャトリヤという武家の王子であった「ゴーダマシッダルター」と言われた方が出家し「悟り」開かれ、その悟りの内容に関しての論理説法をもとにして構築されたものであります。その当時「悟り」を開かれた聖者のことを「仏陀・・・ブッダ」というわけです。その仏陀の教えが長い年月をかけインドからチベットに亘り、中国を経て日本へと伝えられてきました。
 平安時代に伝教と言われた方や弘法大師が中国から学び持ち帰った教えがそれぞれ「法華経」「密教」として定着していったのであります。
 もともと文字の読めない人々が多かったとされている古代インドでゴーダマブッダによって語られた言葉を文章にまとめたのが「アナン」言葉を記憶しアナンとともに教えをまとめる手伝いをしたのが「マイトレイヤー」のち言い伝えられる「ミロク菩薩」と言われた方、によった文集は「古代インドの文字」で書かれてあったわけです・・当然のことながらさらにこの言葉を中国語にします。

 般若心経は中国の偉い坊さんであった「玄奘三蔵」と言われた方が書き残したのですが、インドからその言い伝えられてきた「ゴーダマブッダ」の教えが書いてあるもの(おそらくはサンスクリット語に近いもの)を中国に持ち帰り自国の言葉に、漢字に翻訳するという作業をしていくわけでありますから、
 さぞかし秀才であったことが想像できます。日本に伝えられた時は中国語ですから、今度はそれを日本語にかえていくといったこれまた大変なことであったでしょう。

 翻訳作業というのは翻訳する方の言葉の知識、恣意などの混入によって微妙な解釈違いが発生することはやむを得ないことであったと考えられます。本来の「仏陀」の教えはこういう経路を経て、又は権力者の影響なども受け変化していったものです。
 伝教大師の比叡山も、弘法大師の高野山もその時々の権力者との関連から、本来あるべき姿から遠のいていったものだと考えられます。

 こうしてみたとき仏教はすでに仏陀の教えとはかけ離れていき「末法」と化しているのが現状であると思う次第です。



 


 

 
posted by 筆文字や隆庵 at 10:27| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月15日

我々は考える如くなる

 再び「アガシャーの哲学」より・・・

 目に見える物質そのものは、形の世界は単に外面的であって、実は我々個人または集団の意識が目覚めていく途中に現れる幻影的表現であります。というのは、物理学界に於いての指導的思想家たちは単なる「機械論」では宇宙の法則を正確に説明することはできないと認め、物質それ自体を単に ひとつの心的概念であるとしか説明できない段階にきているし 実際そういった物理学者も増えてきているのであります。
 さらに言えば、この宇宙を一定の有限な閉じた世界、閉じた宇宙なるものと考えているのであって、その中においては、原子や電子の全数量までもが計算できるとされている。
 つまり、もしも一つの原子が失われたならば全宇宙が崩壊するであろうといわれているのであり、これは我々の頭髪すらすべて数えられており一羽の雀すら「汝らの父の許しなくしては地に落ちず・・」という聖書の言葉の発展したものだといえる。

 科学によると、物質はある名状し難いエーテル中の波動の合成されたものであるといわれているのである。すべてのものは完全に関係しあいお互いに関与しあっているので、ある部分における変化は理論的には全体に変化を与えざるを得ないということが発見されているのである。
 
 作用と反作用とは本質的には意識の働きに関係してくるのである。形の世界に於いて種々なる調和と不調和とをあらわしている意識の影はその背後にある知性の光の程度に従ってお互いに反作用しあうのである。
 「人は考える如くなる」 同じように凡ての人間は考えるとおりになるのである。 集団も。国家も考えるとおりになるのであるからその反作用を個人的には個人が、集団的にはその集団、国家に受けることになるのであります。いかなる想念も、行動もすべてが波動空間の中に記憶されているのであり、
 
凡ての想念や行動は公平無私な法則に従って、愛憎なくその作用の反作用を生み出すのである。
個人にしろ集団にしろ 調和不調和の 原因をつくり結果的にそのようになっていくというのが真理なのであります。

・・・個人の個人的な想念と行為に関してはその発信者である個人へ、また集団としての想念と行為はその集団へと 反作用が降りかかっていくというのが原則であるわけですから、国家首脳の想念や行為はその発信者である首脳のみならずその国民の多数の暮らしにも影響という反作用が降りかかっていくということであります。

 また、それぞれの出来事はすべてに関連していくので連鎖式に波動がひろがり多くの人の想念に影響をあたえるのであり、さらに新たなる反作用を引き起こすのであります。正しい観察とそれによる行動は多くの正しい判断を生みしぜんの摂理にかなった世界、を生み出すのだということ。

 平和、調和に反する想念や行為、それをあおり広範囲に悪想念を垂れ流しているマスコミの在り方 要注意です。無意識に無分別に垂れ流された情報に惑わされることなき知性や理性を持たなければならないのです
 知らず知らずに心の中に入れた情報をもとに我々はその考えたごときなるのである。というアガシャーの言葉をよく理解しておかなければならないと思う昨今の状況です。

 ウクライナ情勢、コロナ禍、不正確な情報発信、利己主義的リーダーの行動、言葉など枚挙にいとまがないのが今の時代だと思う次第です。







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2022年04月13日

情報過多時代

 普段目にしたり耳にしたり、それが地上波電波が介在する手段であり、ネット上で発信される情報であったりと、私たちの身の回りには多大な情報が、その内容の真偽を問わず飛び交っています。
 いちいち、こんな情報に振り回されて一喜一憂しながら日々を送ることのばかばかしさにようやく気が付き始めたのか、ワイドショーの視聴率が落ちてきているということです。
 いろいろな意見が流されていますが、本当に視聴者のためになっているかはその発言内容のばらつきや、前後の論理矛盾などが大っぴらになってきていますよね、要するにどうでもいい情報が発信されているということになるのです。
 ならば、私たちに直接関係のある情報を自分なりに取捨選択し、常識や論理をもとに行動すべきであってプロパガンダもどきのマスコミ情報をうのみにし右往左往するのは時間の無駄だと思うようになりました。

 そもそも、人の移動距離や生活範囲などは狭いものであります。とくに広い範囲で仕事をしているとかいう人、又はその仕事上海外の紛争や経済状況に影響を受ける人たちはそれぞれの立場からそれらの情報は先を読まなければならないという観点、役割からも必要なんだとは思いますがそれ以外の多くの人たちは様々な影響を受けるとしても、自らの力ではどうにもならないことなんだろうと思う次第です。
 不満や不安で心のエネルギーを浪費するほうがばかばかしいと思う今日この頃であります。

情報過多時代に生きるすべ・・・「ケッセラセラ」
posted by 筆文字や隆庵 at 10:37| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月12日

あの世とはどんな世界であるか

 あの世とこの世の違いは「あ」と「こ」の違いで、現在肉体世界にいる私たちがその原子肉体という衣を脱ぎ捨て所謂、霊として光の肉体を持ち、波動世界に住することになるわけですが、そこは各人の思念のバイブレーションに応じた世界ということになるのです。

 誰もみなこのようなバイブレーションの世界に住むことになり、そこには現世と何らかかわることない自分として存在するのであります。
ただ肉体がなく、意識が地上界にいた時とくらべ90%であった潜在されていたものが表に出るわけですから、まさしくうそのつけない状態になっているわけで、他人のことを恨んだりねたんだりしたらその様子がすぐにあからさまになるというわけです。
 
「あの世でもこの世でも人間の欠点は繰り返し現れてくるものである。」

「天と地を結ぶ電話」より、 
 
 巷間言われている死後の世界というものは、生命活動の停止ではなく、霊界に住んでいるとはいっても人々は生長し、進歩するのであって
彼らの環境や性向によってその進歩が遅かったり速かったりすることは当然なことである。
死後一定の期間は、私たちが地上で生活していた時と同じ個性をを持っているものである。同様の趣味、嗜好や欠点を持ち多くの場合同じ職業を持ち 好き嫌いを持ちさらに多くの場合同じ宗教を持っているのである。
 死んでから後は地上の生活と違っているんだろうと誤解する傾向があるが、これは地上を逃げ出したい人々の願望であると述べられている。

 あの世とはこの世の肉体を去りし諸霊の世界であり意識の調和度により数多くの段階があるということであります。

 あの世この世を通して諸霊を善なる道に導いてくださる方たちを光の大指導霊、仏教でいうところの諸如来、諸菩薩といわれる方たちです
「天と地を結ぶ電話」に登場する霊人「アガシャー」という方は今から7000年前に肉体を持たれた大指導霊であり、その後イスラエルに生まれ変わられた「イエス」であったとこの本では説明されているのです。
 その他如来、大指導霊という方はインドの「釈迦」古代ローマにおける「モーゼ」このお三方が三位一体としてあの世この世の諸霊。つまり私たちを善導してくださっているのです。

 近年では「釈迦」の生まれ変わりでありイエス、モーゼを指導霊として意識の伝達をされていました「高橋信次」という方があります。
心の原点、人間釈迦、心の発見などの著作、数多くの講演記録など残されてあの世にご帰還されましたが、残された情報などをこのブログにて記述し私自らの学習にしているわけです。

 「正法は我とともにあり、われは正法とともにあり」





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2022年04月08日

幸福や不幸苦しみの現れは運命ではない

 そもそも私たちは何のためにこの三次元、という波長鈍重の世界に生きているのでありましょうか。その問いに対して「天と地を結ぶ電話」に登場する霊人アガシャーは次のように述べている。

 凡てのものは意味があり、無意義なものは何一つないのである。すべてのものは原因によって起こり、また目的を持たない原因は何一つないのである。

 私たちの存在原因は、世に生を受ける前の段階で自らが何かの目的のためにといっていい内容を吟味し、今現在ここにあるということなのです。だから逆説的に言えば
 私たちの人生の役割と目的を知るために、ここにあるということになります。

 大宇宙大生命、すなわち私たちがいうところの創造主、神ともいうべき「普遍的意識」の存在を自覚することだといえます。
 あの世この世のすべてを想像された神は、その意思をもって下記のような法則を創造されあの世この世のあらゆる出来事の原則とした。

 「すべての作用には、大きさが等しく方向が反対になる反作用を伴う」といった「償いの法則」といわれるものです。これは物質と精神との非人格的支配力、自己発掘と自覚とを与える業(ごう)の法則に他ならないのであって、この法則が人間の管理下におかれてもおり、つまるところ運命のカギであるともいえるのです。

 したがって表題にした病気や不幸は外部からの到来ではなく自らがつくった原因から生じたものである。ということでありそもそも定められた運命ではないということなのです。
 ある時の思念と行為、思ったこと行ったことに対する反作用はケースバイケースで起こってくるのですが、地球上三次元世界でのわずかな生命活動中に現れえない場合もあるがもしそうであれば「宿題」として次世代、つまりあの世にて清算しなければならない課業として引きついで行くのであります。
 実に機械的なメカニズムが働いているということを私たちは知らなければならないでしょう。




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2022年04月05日

魂の根源

 地上世界で暮らしているということは、私たちの本来の故郷であるあの世というべき精妙なる波長の世界から、荒ぶる波長鈍重な振動で成り立っている場に、転生しているということであって、いずれはあの世に戻らなければならないという運命を 誰もが持っているのであります。

 いわばその鈍重な世界で盲目の人生を歩むことによって魂の修行をしているというのが私たちの使命であり、いずれあの世という魂の故郷に帰った時には、以前よりも成長した姿(調和された形)をこの地上の世界に送り出してくれた守護霊や指導霊、また友人たちに見せなければならないのです。
 その姿をみて彼らはお祝いをしてくれるはずです・・・これらのことは「シルバーバーチの霊訓」のそこかしこに書かれてあります・・

 先述したようにわずか10%の意識で生活している私たちの盲目の人生行路の道案内をしてくれる霊が常にあの世という世界に存在し、ことあるごとに私たちの心にヒントを与えてくれているのですが、欲におぼれ、ものにおぼれ自分勝手に生きている私たちにはなかなか伝わらないのです。
 それでも、こういうことがあります、あることについて追求し求めていると私たちはしばしばひらめきゃ直観というものが働いたりします。又全く関係のない事柄があっという間に結びつき成功につながる経験を誰しもが持っていることです。
これらの作用はもちろん本人の努力の結果でありますが、しかしその努力のに対する守護指導霊の示唆もあるからなのです。

 その示唆はある種の電気作用ともいうべき刺激によってなされているのではないでしょうか。

 自ら努力しないでタナボタ式に何かを求めようとしてもこうした作用は働かないものです。
 調和を目的として知性が働くとき守護 指導霊の導きがあります。これは何も知性だけではなく感情 本能 理性についてもむろんのことです。

 前世で学んだものは今世でも何らかの形で同じものを学ぶ機会があるものだと高橋信次師は述べられています。音楽家である小澤征爾氏はワグナーの魂であると「心の発見」という著書に記されています。
 
 私たちも過去学んでいたことや従事していた仕事などに関連していることを今世でも縁を持っているかもしれません。
そう思うと何事も努力を惜しまないことが大切でしょう。しかもその努力は永遠に自分のものになっていくわけですから・・・


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2022年04月03日

過去世現世来世は生命流転のサイクルである

 今、私たちがこの現象界(地上の物質界)に生きているということは、すなわち過去も生きていたということになるわけであり永遠の旅を続けながら「創造主の心に」一歩でも近づかなければならないというのが万人に与えられた使命なのであります。

ところが修行の場として与えられているこの物質の世界ではあの世の世界での生活と違い自らの意識は10%しか表面化しないようになっているため中なか過去の経験によって培った知識や能力を発揮できなくなっているのです。

 あらゆる物質の仕組みも同様であって10%の表面化された姿になっているのです
例えば、氷は同じ分子式であるH2Oの水の中では全体の10%が顔を出しています、同じく溶けた鉄の10%しか表に出ていないようにです


 その潜在している意識の中には何億回と転生輪廻を繰り返してきたところの偉大な智慧が眠っているということになります。
そこで、その偉大な智慧を呼び起こし現実の世界に役立て行くことができれば身の回りに起きている問題解決が容易になるのです。
 それを「心の窓が開く」とい言います

 心の窓が開かれると、未解決の問題は次々と解かれていきます、その時その人は己の使命の重大さを悟るでしょう。
 それは学んだから解明したのではなく潜在意識の90%の中にある心の智慧の泉から湧き出してくるからである。

 般若心経の中にある般若波羅蜜多とはそのことを解いているのであります。

多くの人々は肉体という物質をまとっているためその魂意識の10%で人生を送っているため、人生の苦しみを自分で造り出してその結果を直接受けるようになってしまう。

 あの世から私たちに霊感を与えたり援助しようと思って協力している魂の兄弟や友人たちの通信すら中々受けられなくなてしまっているのが残念ながら現実なのであります

 私たちの魂は、意識はあの世と通じていて誰もが発信機と受信機を持っているのですが波長、振動数を合わせられないため通信ができなくなっているのです。

 この世に生まれる前に約束していた両親の間に生を得、肉体人間として人生が始まる際 天上の世界から見守ってくれる約束をしている守護霊、指導霊多くの友人は、激励会を開いてくれているのです・・・生まれたばかりの赤ん坊が「にこにこ」笑っているのはその魂の仲間たちと交流しているのです。そしてまもなく交流はいったん閉ざされ人生を送るということになるのです。

 こうした縁があったとしても気が付くことが少ないということは生まれる前につくった今回の人生の「シナリオ」にたいしてなんとなくは覚えてはいるものの、肉体人間として成長したとしても10%の意識ゆえか、現実社会においてだんだんと間違っていき 物質的 経済的、地位や名誉欲  情欲的、自己中心的な人生を送ってしまうためである。
 しかしながら、私たちは正しい行為をなす自由と同じく誤った行為をなす自由も与えられているのも、創造主の愛なのだということです。
要は、肉体人間である必要性は過ちを自らの成長の糧とすることを望んでいるのであります。


posted by 筆文字や隆庵 at 13:13| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする